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教員紹介詳細:村上興匡先生 - 大正大学宗教学研究室

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教員紹介: 村上 興匡 先生   ➢教員プロフィールはこちら

 

1.【宗教学を専攻した背景】

聞き手
村上先生が宗教学を志された背景を教えていただけますでしょうか。
村上
もともと大学に入るまでは理系志望でずっと生命科学をやりたくて、大学も理系に入りました。だけど、お寺の生まれということもあり、将来はお寺を継がなければならなかった。
ただ、お寺が小さいということもあり、うちの父は教員をやりながらお寺をやっていました。僕も、教員をやりながらお寺の仕事をするんだろうなと思っていました。そこで、大学の先生になろうと思い、どうせ大学教員をやるならお寺の生活に役に立つような研究をしたいと思い宗教学に進みました。
聞き手
先生が育った環境とご自身の研究が密接にリンクしながら将来像を描いていたということですか?
村上
将来像まではいかないけど、どうせ農家をやるんだったら農学部に行こうかということと同じ感じで宗教学に進みましたね。
聞き手
大学教員であることと、お父様のように小中高の学校教員であることはやや異なる面があるように思います。つまり、大学教員は教育も重要ですが、同様に研究もしなければならないと思います。研究生活についてどのようにお考えでしょうか。
村上
先ほど生命科学に進みたかったと言いましたが、理系だと比較的研究者になるということは珍しくありませんでした。今と違って僕らの頃は景気が良くて、普通の人は就職していましたし、ある一定の成績を取っていれば大学に残るということが普通でした。

実際、僕の同級生も5,6人大学に残って先生をやっています。ただ、理系から文系に行ってみて感じたのは、文系は先生になることは難しいなということでした。
東京大学の宗教学研究室では、入る時に通過儀礼みたいのがあって、かならず大学院を受けるときに「大学院に来ても食えないぞ」と言われました。ここで引き合いに出される話が、岸本英夫先生が「鰹節にかじりついてもやります」と言ったら「なぜ石にかじりついてでもと言わん、鰹節なんて食えるわけがないだろう」と返されたとかそうでないとかというものです。
経済面については、僕は逆にお寺をやらなければならないということもあったので、大丈夫でした。お寺が群馬の高崎ということで、奨学金はもらっていたんだけど、その他に土日と夏休みなんかは、高崎に帰ってお寺の手伝いをしていました。そうするってぇと、比較的後ろめたい気持ちにならず親から援助をいただいてました。
 

2.【専門分野の設定へ】

聞き手
そのような背景を持たれる中で、先生のこれまでのご研究であられる「近代化」「葬儀」「伝統儀礼」に焦点を当てていくという流れがどのように作られていったのでしょうか?
村上
寺に生まれると周囲から「人が死ぬのを待っている」とからかわれました。周りの人は、僧侶という職業をからかいの対象として思っている節があるような気がします。一方で、僧侶がいなくては困るという感じも持っている。
地方だと、警官と教師とお寺の息子というのは地域社会からかなりチェックを受けながら育っています。僕の場合は「お寺の若様」と呼ばれて、大学院に行くと「いつ帰ってくるんだ」とか「いつお嫁さんを貰うんだ」とか言われたりと、ものすごく周囲からチェックされていました。
一方で、自分のやっていたお寺の生業というのが、実際にはあまりわかっていなかったんですよね。教義を究めて仏教の達人になるのではなく、それよりも日常生活の中の仏教に興味を持ちました。そのようなわけで、日々お寺でやっていることや、お寺でやられていることを学問的に位置づけてみたいと思っていました。
高校の時に一冊本を読んでレポートを書くという課題がありました。そのときに読んだのが、藤井正雄先生の『現代人の信仰構造』という本でした。これを読んで、このような研究もあるんだなと思い、印度哲学よりも宗教学に行こうと思いました。一年浪人した時には、東大の宗教学と大正大学の宗教学を受験しました。
聞き手
現実的かつ日常的な宗教ということに視点を置かれて研究をされてきたということですが、「近代化」に注目したのは、今の時代がどのようにできたのかということに関心があったからなのでしょうか?
村上
何を研究するかというのは、人との縁というのが結構影響があって、僕が卒業論文を書くときに、宗教社会学を研究して居られるヤン・スィンゲドー先生の世俗化の授業を聞きました。世俗化の理論について大学院と学部が一緒にやる授業だったんだけど、自分のやりたい葬儀の話とかは世俗化の理論である程度説明できるなと思いました。社会的なものがだんだん個人的なものになるというような話ですね。
卒論では、自分の地元の葬儀の歴史をやりました。葬儀の研究というのは民俗学にしかなくて、野辺送りや土葬の研究が主でした。だけど、僕が地元に帰って実感として持っているのは、葬儀社がやっている葬儀で、告別式スタイルのもので、火葬でした。いつからこんなふうになったんだろうと思って調べていくと、うちの地元だと1960年代の終わりくらい。近所に大きな工業団地や問屋団地ができて、地元に人たちがそこに働きに行って、産業が農業から変わっていっている。
そのような変化と一緒に葬儀の変化も起こっているのではないかというものでした。スィンゲドー先生の授業で研究発表というものがあって、このことを発表したら「面白い事例だ」と言ってくれて、当時の東大宗教学の先生だった田丸徳善先生からもほめていただいて、これなら大学院にも行けるなと思って進学することになったんです。
聞き手
そうなってきますと、フィールドに赴いて現地調査をするというのが多くなってくると思います。今の大正大学の学生にも現代の宗教はどうなっているんだろうと、フィールドワークをする人・したい人が増えていますが、フィールドならではの楽しさ、辛さなどを教えてください。
村上
僕が大学院に入ってからついた先生が柳川先生だったんだけど、修士1年のときに柳川先生がくも膜下出血で入院してしまいました。なので柳川先生にはあまり指導は受けなかったんですが、その代わりに、柳川先生の弟子筋にあたる先輩方に教えられました。中沢新一さんの紹介で、山梨県の丹波山村で調査をしました。丹波山村の実態をまとめるのを島田裕巳さんと一緒にやっていました。調査は他にも、石井研士さんと一緒にやったり、関一敏さんからアドバイスをもらったりと。
このときの調査っていうのは、だいたい研究の枠組みを作らずに、まず行ってみてからいろんなことを調べるんだけど、ここでは、行事に参加したり、相手に話を聞いたりということで。ここで面白いのは、聞きに行った人によって、同じテーマを設定しても違う内容ができあがるということだった。同じお地蔵さんの事を聞いても、僕が聞くのと違う人が聞くのでは、人によって語ることが変化してて、ちょうどこのころには、人類学批判というものがあって、調査というのは、調査する人と現地の人がインフォーマントの共犯関係になっているというもの。このことがかなり印象的で、自分たちもそうだったのかと思ったりしたけど、、、。 そのような調査を今度は、修士論文で葬儀屋さんにやることにしたんです。それで修論を書いた後は、文部省の宗務課に就職しました。そのときに、オウム真理教の事件で5年研究できませんでした。 助手として戻ってきた後に、同じような研究を再開しようと思ったんだけどできませんでした。なぜかというと、大手の葬儀屋さんに話を聞きに行くと、どこかで聞いたような話が返ってくる。あれ?と思うと、当時、月刊『葬儀』で僕は連載を持っていて、結構人気があったんだけど、そこで書いたような内容の話を葬儀屋さんがするんですね。
調査の話になるのですが、民俗調査に行くと、村の長老が学生はこういう話を聞きたいんだろうと判断する。長老の書棚には柳田国男全集があったりする。つまり、そういう対象者にもハウツーができあがっている、というのが民俗調査にはよくあった。その葬儀屋版というのが助手に復帰した時に実感して、調査を再開できませんでした。その後、研究の中心となるのは、雑誌のなかの記事をみて、どのように葬儀に対する考え方が変っているかということを調べることでした。
 

3.【現在の大学院生について】

聞き手
先生が大学院生だったころを思い返して、今の大学院生と比較してここが違うなぁと思うところなどを教えてください。
村上
大正大学に来る前に東大で10年間助手をやっていましたが、学生の様子が変ったかというと変ったところもあります。だけど、大学院生が置かれている状況はあまり変わっていないですね。宗教学は学問伝統がしっかりしていないので、早いうちから先輩が引っ張って就職するというのはなかった。なんとなくやっているというと、オカルトみたいな話だけど、研究室から人がいなくなる。人が新しく入ってくると、いつの間にかどっかに消えていく人もいる。
卒業した人も、アカデミックな分野に就職していたわけではなかったりしますね。
10年間いた時にどういう話をしていたかというと、「大学院に行くということは極道の世界なんだ。道を極めると書いて極道と読む」から始めて、「親兄弟を泣かせる職業だということを頭にいれとけ。まっとうな人は学者にならない方がよい」と言っていました。「助手なのに進学をさせないようにしているなんてひどい」とか言われていました。ただし、中には道を外れないと幸せになれない人がいる。 哲学系や思想系の本をずっと読んでいても、膿まない人がいる。飽きなかったり嫌にならなかったりする人がいたら、そういう人こそ薦めていました。なまじ社会的な能力がある人は学者には向いてと思うなぁ。鰹節の話に戻るけど、食えなくても大丈夫で、収入が低くても苦にならない人。そういう人が学者の道を進んだ方が幸せになれる。
変わり者が道を極めるために進むのが学者で、普通の人が就職してはだめ。それで良いのかどうかは自分で判断しなければダメだけどね。ジャングルで戦闘するようなもので、いつかヘリコプターで救助が来ると信じているんだけど、10年経っても来ないかもしれない、20年経っても来ないかもしれない、でも明日来るかもしれない、それはわからない。
でも明日来るとわかったときに、登られる準備をしていないと登れない。だから研究者でいえば、論文で業績を積み上げてなければならないし、博論も書かなければならない。しかし積み上げていれば就職できるかと言うとそうでもない。それがわかっているのであれば、大学院で続けられるけど無理だったら早めに切り上げた方がよいと思いますね。
聞き手
しかしながら近年の大学院は、研究者の養成はありながらも、学部卒や社会人が教養を求めてくる場合もあります。それらのことも含めて、大学院は社会的ニーズに合わせていろいろ使えると思いますが、村上先生はどのようにお考えでしょうか。
村上
大学院の授業は必ずしも教育的である必要はないと思いますが、はからずもそうなっています。大正大学の修士課程だと、学部で宗教学を知らないまま来ているので、授業では基礎的なことをほとんどしゃべっています。これは非常に不本意ですね。
学者を養成するためには悪い方法です。学者にとって何が大事かと言うと、オリジナリティーを磨くことです。オリジナリティーを磨くためには、自分自身で勉強しなければならない。教えすぎるとろくでもない学者にしかならない。本当に独創的で外でも使える学者を育てるにはあまり教えてはならないというのが僕の指導方針です。
だけど、それだとあまり先に進まないので、はからずも教育的になっています。僕は、修論指導している学生には、あまり教えないようにしているのですが、時間的な問題とかもあったりするので、ついついアドバイスしてしまう。
本当は、「先生がおっしゃるところをわかりますが、僕の言いたいことはこういうことなんです」と反論してくれる人の方が良いよね。
聞き手
教員と学生の関係はあったとしても、学生は学生で本人の考えているオリジナリティーを提示すべきということですよね。
村上
そうですね、教えるのは最小限で、盗むなら僕だけではなくいろんな人からも盗んでほしい。
 

4.【今後の研究は】

聞き手
最後に、今後大学教員としてどのような関心でどのような研究をお考えでしょうか。
村上
東大では実践宗教学はやりにくかったので、大正大学では実践宗教学を中心にやっていきたいと思っています。今は地域の文化を心の教育やいのちの教育に活かすということに関心を持っています。宗教教育は、半分は文化教育だと思うんですね。
宗教という言葉がつかなくても、文化的少数者に配慮して公立学校で行うというのは難しいんだけど、宗教という言葉を使うよりは抵抗が少ない。情操教育というよりは、心の教育、いのちの教育と言った方が抵抗は少ない。
それで、宗派色を抜いて宗教教育をやるとしたら、べつに宗教の言葉を用いる必要性はないんだから、もっとわかりやすいことばで説明することは出来ると思います。死ぬ苦しみを癒すことを教えるときには、デスエデュケーションの話をしたっていいと思う。
広い意味での宗教の社会に対する効用を明らかにしていく研究をしたい。宗教学では特定の宗教の為に研究をおこなうというのは公平性に欠くと批判されますが、心とかいのちとかにまで抽象度を上げたらそんなに偏った研究ではないのではないかなと思います。これからの宗教学は、社会に対する宗教のプラスの機能を研究すべきだと考えています。
聞き手
興味深いお話をありがとうございました。

(2010年4月インタビュー)

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