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教員紹介詳細 - 大正大学宗教学研究室

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教員紹介: 髙瀨 顕功 先生   ➢教員プロフィールはこちら

 
 
2021年2月、本研究室OB・OGの長島三四郎・大場あや、修士課程の柳澤最一・大藤椋太 の4名が

髙瀨顕功先生に zoomにてインタビューを行いました。ぜひご覧下さい!

 

1.【宗教学を専攻したきっかけ】

大場

はじめに、宗教学、宗教社会学との出会いをお聞かせいただければと思います。

大正大学大学院に進学され、修士課程は仏教学専攻だったと伺っていますが、宗教学を専攻されるまでにはどのような経緯があったのでしょうか。

髙瀨顕功先生
(以下、髙瀨)

浄土宗の僧侶になるには知恩院か増上寺で修行をしなければならないのですが、そのためには宗門大学(大正大学、佛教大学)の養成コースに行くか、あるいは教師養成道場という、短期間の集中講座のようなものを何回か受けていくコースがあります。一般の大学に行った方は教師養成道場に行く方が多いのですが、私は一般の大学に行き、養成道場などにも行かず、卒業後、大正大学に行って修行に臨もうと考えていました。

大正大学の大学院に入るときは、教典を読めたほうがよいということで、仏教学に入学しました。仏教学は基本的に経典などの文献学が中心で大変勉強になりましたし、浄土宗の教えを理解する上では非常に重要でした。

 

ただ、僧侶の勉強をしていく中で、より現代的な内容、つまり、現代社会と仏教の関わりとか、社会における寺院の役割みたいなものを学びたいと思って、星野英紀先生の大学院の宗教学の講義に参加させていただいたりしていました。それは非常に実存的な問いから始まっています。つまりお寺に生まれてお寺に育った自分として、寺院や仏教が現代社会にどんな役割を果たせるのか、どんな機能を持っているのかみたいなことを知りたかったということです。

 

そんな時、当時大正大学の宗教学研究室に浄土宗の僧侶で宗教民俗学をご研究されていた鷲見定信先生(2010年逝去)がいらっしゃって、宗教学ならあなたの興味関心に近いことができるよとお誘いくださいました。そういった動機とご縁で宗教学の門を叩いた、という流れですかね。

大場
現代社会と宗教への関心は、どういったきっかけで生じたのでしょうか。
髙瀨

大正大学に進学する前、養護学校の教員をしていたことがあります。ほんの短い期間でしたが。

それが非常に自分の中では大きなターニングポイントだったかなという気がしますね。

大場
そうなのですね。そこではどのようなことがあったのですか。
髙瀨

養護学校なので、いろんな子がいるんです。自閉症の子とか、ダウン症の子とかいろんな子がいて、いろいろ特徴があって、みんな自分の気持ちにストレートですごい面白いんですよね。そういう子たちと一緒にいるとき、私が見ている世界とは違う世界を見ているという気がしたんですね。

 

例えば自閉症の子って、環境が変わるとすごく適用が難しいんです。教室の様子が変わったら落ち着かないんですよね。でも、我々からしたら、教室って多分黒板があって教卓があって机が並んでいれば「教室」って、その位置がずれていても、多分「教室」って思うんです。それって概念的にものを捉えているんですが、彼らからしたら、4月1日に入った教室が「教室」で、それが変わるとここは「教室」じゃないみたいな。それで、なるほどそういう世界の見方もあるのかと、自分が見ている世界が全てじゃないんだなと思いました。

でも、結局この世の中って、多数派が社会をデザインしているから、少数派ってすごく生活しづらいルールがあったり、生きづらさを感じていたりするんですね。あれしちゃいけないとか、これしちゃいけないとか、彼らからしてみると、確かに適応するのは大変だなと。そういう社会的弱者、社会に困難を抱えた人に思いを寄せる時間があったんです。また、彼らが学校卒業した後に行く場所がないという話もよく聞きました。

 

そういうときにお寺って何か役に立てないかなとか、社会の困っている人とか、あまり気に掛けられていないような人のために、寺院ができることって何かないかなと思っていたのが、現代社会と寺院みたいな興味関心に繋がっていると思いますね。

大藤

それは現在も「ひとさじの会」とか、そういう社会活動にも関心として繋がっているのでしょうか。

髙瀨

そうですね。研究としても繋がっています。宗教学に入って、漠然と「現代社会と仏教の関わり」という大きなテーマはありましたが、具体的にそれがどういう学術的系譜に位置するのかあまりよくわかっていませんでした。その時も、鷲見先生に、エンゲージド・ブディズム(Engaged Buddhism)という領域をご紹介いただきました。

そのときに小川有閑先生とも知り合いました。小川先生は、東京大学の宗教学研究室にいましたが、鷲見先生のゼミにも来ていたんですよね。それで、小川先生から、「そういう研究をするんだったら、実際に現場も知っておいた方がいい」と言われ、吉水岳彦先生(※「ひとさじの会」の創設メンバー。現・事務局長)を紹介いただきました。

そこで、研究目的で参加させてほしいと吉水先生に頼み、許可をもらって、宗教者による生活困窮者支援というフィールドが決まりました。

 

2.【アメリカへの留学とフィールドワーク】

大場

色々なきっかけや出会いがあり、方向性が決まっていったのですね。

高瀬先生は留学もされていますが、どういった経緯だったのでしょうか。

髙瀨

大学院の博士課程に入ったとき、大枠のテーマは決まっていましたが、できれば留学もしたいと指導教授の弓山達也先生(現・東京工業大学教授)に相談したんですね。そうしたら、最初に参加した学会(2009年の「宗教と社会」学会)で、当時神戸大学にいらっしゃった稲場圭信先生(現・大阪大学教授)を紹介してくださったんです。

お話の中で、稲場先生から、「ペンシルベニア大学のラム・ナーン(Ram Cnaan)先生が、FBO(※Faith-Based Organization、信仰に基づく組織)とボランティア活動について調査をされているから留学先にいいのでは」と言われました。

それで、ダメもとで「アメリカで学びたい」というメールを送ったら、給料は出せないけどデスクなら用意できるよ、とのお返事をいただき、受け入れていただけることになりました。

長島
ペンシルベニア大で実際にラム・ナーン先生の授業を受けていたとき、印象に残ったエピソードなどがあれば教えてください。
髙瀨

ペンシルベニア大学に行った当初、最初に統計の授業を取っておくといいよと言われました。統計学を英語で受けるみたいな話なので、授業を受けても全然わからなくて苦労しましたが、人文学と社会科学ってこんなに違うんだというのも学びましたし、学問としてのディシプリンが違うというか、何か日本の宗教学は、社会学みたいな感じもするし、人文学みたいな感じもするし、両方架橋している感じがしますが、アメリカは学問の手続的に完全に違っているという感じです。文献なのか、それとも社会調査なのかとか。

 

学んだ場所がSocial Policy & Practice (通称SP2)という社会政策実践研究科みたいなところだったのもあると思います。そこでは社会科学的な手法を基礎に、こうやって世界・社会を観察/分析するんだということを学びました。あと、調査や研究が社会にどういうインパクトがあるのかを意識することも教えられました。それをやることでどんな学的意味があるのか、社会への貢献は何かということです。

 

そういう話を聞いて、今やっている研究とか、今調べていることというのが、学術的にどういうふうに、どんなところに関わる問題なのかとか、あるいは社会の中でどのように意味のあるものなのだろうかと考えるようになりました。

大場
アメリカではどのような調査をされていたのですか。
髙瀨

日本でもひとさじの会以外に、キリスト教会のボランティアなどにも1年以上通っていたので、アメリカでも同じようなホームレス支援、生活困窮者支援のフィールドでどのような活動をしているかを見ようと思ってホームレス支援をしているFBOを4か所くらい定期的に回っていました。

こういう人が来ているとか、机の配置がこんなふうで、こういうふうに人が座っていてとか、出されるものはこれで、とか、調査後カフェでフィールドノートを整理して、その日見たこと聞いたことをまとめるみたいな感じで。

柳澤
ホームレスの方の人種というか、そういうのは特徴がありましたか。
髙瀨

人種はいろいろですね。正確に言うと、食事を求めに来る全員が全員ホームレスというわけではなくて、生活困窮者というほうが近いかもしれないです。家はあるけれど、十分な生活ができていないという人も中には含まれます。

日本の炊き出しだと、ホームレスの方が並ぶというイメージですが、何か困っている人どうぞみたいな、もっと言うと、別に困ってなくてもどうぞみたいな、誰でもどうぞみたいな感じですね。なので、見てみたら普通の人も来ていることもあるし、FBO側もそれを排除はしません。

 

教会によって、例えば黒人教会だったら、黒人の利用者が多いとかはあります。プレスビテリアン(長老派教会)みたいな、割とホワイトのメインストリームがやっているような教会だと白人系の困窮者の利用もありますね。

ただし、白人といってもヒスパニックの人が多いかな。あと、生活困窮のバックグラウンドは、単に経済的なものだけではなくて、メンタルヘルスの問題とか、薬物の問題、従軍経験によるPTSDとかそういった背景があって生活困窮に陥る人もいます。

柳澤

アメリカは多人種・多国籍の国ですが、高瀬先生がいらっしゃった研究室の国籍はどのような感じでしたか。

世界中から人が集まっているイメージですか。

髙瀨

そうですね。一緒に授業を受けていた5人の内、3人は中国人でした。

みんな別にアメリカで生まれていないので、自分だけ外国人だという言い訳ができない感じでしたね。

でも、仲良くなって授業の振り返りとかが一緒に出来てすごく助かりましたね。

柳澤
日本人は一人ですか。
髙瀨

日本人は一人です。フィラデルフィアには、日本人勉強会という会があって、留学生だけじゃなくポスドクや企業派遣の人などと交流する機会は月1回ほどありました。

ペンシルベニア大学には、医学系で留学してくる人とかは多いんですけど、あとは、ビジネススクールも有名なのでMBAを目指してくる人もいますが、人文系の人は全然いなくて、非常に珍しがられましたね。

「え、宗教やっているんですか」みたいな(笑)

 

3.【博士論文の執筆に際して】

長島
日本に戻られてから博士論文を書く段階で、先ほどのラム・ナーン先生の論文とか、弓山先生のご指導とか、実際に論文を形にする時には何が大きかったのでしょうか。
髙瀨

フィールド、事例はあったけれど、それをどういうふうに分析の俎上にのせて検討するかは、すごく悩んだところなんですね。それは「宗教と社会貢献」研究会でも常に言われてきたことで。蓄積される事例をどう分析するかということですね。

 

それで、もしないなら自分で分析枠組みを作ればいいんじゃないか、と考えました。留学中に授業で読んだ論文で気になっていた理論がありました。それは、マーク・チャベス(Mark Chaves)の、宗教組織を宗教的権威構造と行政構造の二重構造からとらえるというものです。

宗教的権威構造とは、ウェーバーの理論を参考に、人間に対する精神的な支配のシステムの基礎を形成する価値の支配を通して、その支配を強化し目的を達しようとする社会構造のことです。

一方、行政構造とは、具体的な事業(海外・国内布教活動、教育、出版など)を行う部門のことで、きわめて合理的なもので、どの教団にも同じような部門が存在しているといっています。そして、この行政構造が宗教的権威構造から自律化していくことを組織レベルでの世俗化としてとらえるというものです。

 

こういう理論を応用して、経済的資源や人的資源が教団組織からどのくらい近いか、あるいは遠いかという資源の距離感を基にマトリックスを書いて、社会活動をする組織体としてのFBOを分析していったらいいんじゃないか、と考えました。そして、その構想を「宗教と社会」学会で発表し、それなりに手応えもあったので、これを軸に博士論文を書いていきました。

大場
大正大学の大学院に在籍されていた当時、先生方はどなたがいらっしゃったんですか。
髙瀨

星野先生、鷲見先生、弓山先生、村上興匡先生と藤原聖子先生(現・東京大学教授)、ちょうど留学するぐらいの時期に寺田喜朗先生もいらっしゃいました。錚々たるメンバーですよね。

 

藤原先生の授業はとくに印象に残っています。藤原先生の授業では、英語の論文を講読して紹介するものがあって、Religious Education(宗教教育)の論文を読んだんですね。ちょうどそのとき世界各国の教科書の中で宗教がどう扱われているかということをテーマに研究をされていました。

課題がレポートではなく、論文の書評を書こうみたいな課題で、非常に勉強になりましたね。「いずれ書評を書く機会があるでしょうから」ということで、その練習もかねてくださったのだと思います。

こういう課題だと、単に論文の内容を紹介するだけではなく、これまでの研究の中でこの論文がどういう位置付けになって、どのような価値があるのか知らなければ書けないので、ためになりましたし、記憶にも残りましたね。

 

4.【大学院進学を目指す人へのメッセージ】

大場
ありがとうございます。では最後に、大学院の進学を考えている人へ向けてメッセージをお願いします。
髙瀨

研究者になることだけが大学院に進学する理由ではないかなと思います。

むしろ現場を持っている人が、宗教者とか大正大学の場合だと、特に僧侶が、自分たちの活動や行為がどういうふうに位置付けられているのかを客観的な視点で学べる場だと思います。そういう学びができるのも、大正大学の宗教学の強みかなと思います。

そういった意味では、学んだ理論や知識を活かす場を持つ僧侶の方にこそ、ぜひ来てもらいたい場所でもあります。

もちろん、特定の信仰はなく、学問として究めたいという人にもぜひ来てほしいです。

長島
大場
柳澤
大藤
ありがとうございます。時間がずいぶん超過してしまって申し訳ありません。この辺りでインタビューを終えたいと思います。今日はお忙しいところ、貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。

(2021年2月インタビュー)

 

教員紹介: 弓山 達也 先生

 
<プロフィール>

1963年、奈良市生まれ。1986年、法政大学文学部哲学科卒業。2001年、大正大学大学院文学研究科宗教学専攻博士課程満期退学。日本学術振興会特別研究員などを経て、1998年、大正大学の任期制専任講師。2000年に博士(文学)を取得。2006年より現職。専門は宗教社会学。現代世界の宗教性/霊性を研究。主な著作・共編著として『いのち 教育 スピリチュアリティ』『現代における宗教者の育成』『天啓のゆくえ』『スピリチュアリティの社会学』『癒しを生きた人々』『癒しと和解』『祈る ふれあう 感じる』など。財団法人やNPOなどの活動を通して、研究者・学生、宗教者、市民をつなぐネットワークを模索している。

 

1.【宗教的背景について】

聞き手
奈良市生まれということですが、、何か宗教に関連する家柄だったのでしょうか。
弓山先生(以下、弓山)
よく言われますが、そうではありません。本籍は結婚するまで愛媛県の新居浜で、たまたま父の転勤で奈良在住の折に僕が誕生したのです。3歳で東京に出てきて、赤羽やや王子といった京浜東北線沿線を転々としましたね。
聞き手
では宗教に関係ない?
弓山

という訳でもなく、住んでいた所々で、近所に新宗教の信仰者の方がおられて、小学校の時から、誘われて、いろいろと道場や教会に行っていました。

また博士論文を元に執筆した『天啓のゆくえ』の基本的な調査も、井上順孝先生などと『新宗教事典』(弘文堂)の調査をご一緒させていただいた時が起点となっているのですが、偶然、先ほどの京浜東北線沿線に、調査対象となった教団が点在していましたね。そして王子に住んでいた時は歩いていける距離に大正大学もありましたし、やはりご縁があったんでしょうね。

 

2.【宗教研究を始めたきっかけ】

聞き手
そうしたご縁の中から、宗教を研究しようと思ったきっかけは何だったんでしょうか。
弓山
法政に入学した時に法政大学哲学会という学生組織があって、そこで宗教学研究会というのが立ち上げられて、そこに参画したのが大きいです。詳しい話は『天啓のゆくえ』のあとがきに記してあるので、そちらに譲りますが、80年代当時は「自主ゼミ」という伝統があって、大学の講義や演習とは別に学生が自主的に学習をするんですね。そこで4年間を過ごしました。読書会、講演会開催、学術大会で研究発表、懸賞論文に応募と、けっこうアカデミックな活動をしていましたね。日本宗教学会の準会員にもなって、学部時代から学術大会にも行っていました。
聞き手
学部生で学会に行かれていたんですか?
弓山
それこそ83年の大正大学、85年の立正大学の大会に行きましたよ。大正では竹中信常先生の基調講演を聴きました。
聞き手
修士論文は金光教で、博士論文は天理教の分派なんですね。弓山先生というと、現代のことをやっているという印象が強いのですが、幕末維新期の新宗教と現代宗との「あいだ」といいますか、新宗教研究からスピリチュアリティ研究への移行を簡単にご説明願いますか。
弓山
単なる変節です。
 聞き手 変節ですか?
弓山
というのは冗談なんですが、ネットでは、そんなふうに評価されています。新宗教研究の閉塞から、スピに逃げたって(笑)。
聞き手
で、逃げたということになるんでしょうか?
  弓山 自分の中では必然的だと感じています。新宗教研究で僕が一番関心があったのは個人の体験と教団の共同性との関係です。病気治しの奇跡や啓示を受けるような体験が、どういうメカニズムに個人を超えて運動とか、教えとか、教団へと共有化されていくのか。同じような関心で癒しの問題やスピリチュアリティの問題にも向かいました。癒しの体験がどう癒しのムーブメントにつながるのか、個人のスピリチュアリティがどうスピリチュアルな文化へと向かうのか。
 

3.【近年の研究および活動について】

聞き手
それは弓山先生自身が癒しやスピリチュアリティを求めているとか、そういう癒しやスピリチュアリティが満ちあふれる社会になったらいいなという実践的な課題も含んでいると理解していいですか?
弓山

誘導尋問ですね(笑)。確かにそうかもしれません。研究者がいて、研究対象があってという図式は、僕はピンとこないのです。何かマジックミラー越しに自分を安全な場所に置いて、対象を観察するというのは違う気がする。新宗教研究から、より自分の問題に切実な癒しやスピリチュアリティに関心が移っていったのも、そのためかもしれません。

最近では宗教の社会貢献を研究するすることが流行っていますが、僕は宗教研究の社会貢献抜きに、こうした研究をするのはどうかと思っています。むしろ宗教と市民とをつなぐのが宗教研究者のつとめの一つだと考えています。

聞き手
弓山先生が財団とかNPOとかに関わっているのも、そのためですか?
弓山
財団法人としては、全国青少年教化協議会と国際宗教研究所に関わりをもっています。前者はもう引退しましたが、いずれも、現代性とか、研究と実践という点に目を開かせてくれました。NPOは模索中ですが、何か実践の場にできればと構想を練っています。幸いにも他大学に同好の士というか、ネットワークもできつつもあります。
聞き手
弓山先生の今後の活躍が楽しみです。
弓山
ぜひ、ご期待ください。
 

(2010年3月インタビュー)

教員紹介: 星川 啓慈 先生   ➢教員プロフィールはこちら

 

1.【宗教学を学ぶようになった動機】

聞き手
星川先生が10代、もしくは20代前後に宗教学、宗教哲学を志された動機、もしくは背景などをお伺いさせてもらってよろしいでしょうか。
星川先生(以下、星川)

宗教については、中学時代からその方面の本を読んで興味をおぼえた。大学に入ってからは、現象学(宗教現象学ではなく、哲学の現象学)をやろうと思っていたが、仏教の本を読んでもとても面白かった。でも、親鸞の『教行信証』は、大学2年で読んだが、まったくわからなかったなぁ。


しかし、僕が宗教学をやろうと思った決定的な理由は、井門富二夫先生という僕の恩師の授業、つまり大学の学部1年生の時の「現代人の宗教」という授業が大変に面白かったことである。

 

仏教学にも興味があったけれども、サンスクリットなどの言語の習得は難しい。当時、筑波大学には、三枝充悳先生や川崎信定先生といった語学の達人である先生方がいらっしゃった。なんとなく「語学のできない人間は仏教学ができない」というような厳しい雰囲気があった。サンスクリット語を3か月程度勉強したが、難しくて断念した。仏教学を専攻するには、それ以外にも、パーリ語・チベット語・漢文・英語・仏語・独語…と学ばなければならない。気の遠くなるような話である。諦めのいい性格なので、「自分には無理だ」とあっさり諦めた。賢明な判断であった(笑)。

聞き手
井門先生の「現代人の宗教」星川先生に大きな影響があったとのことですが、具体的には「現代人の宗教」という授業の中で、何について関心をお持ちになられたのでしょうか。
星川

創価学会などの新宗教の組織論かな。それと同時に、毎日新聞社から『宗教を現代に問う』という5冊本のシリーズが出ていたが、これもとても面白かった。井門先生の大学院の授業でいろいろな日本の宗教を見に行ったのも、非常に勉強になった。今は組織論とか具体的な実証的研究には、それほど興味はわかないけれども…。

 

ただ、東京大学の島薗進先生の勧めで、TM(超越瞑想)の参与調査をした。ひょっとしたら、日本で最初のTMの参与調査かもしれない。それで、1993年に「日本における “Transcendental Meditation” 運動――現実的効果の獲得からユートピアの建設に向けて」という論文を書いた。

聞き手
星川先生の最初の論文ですね。
星川
最初の論文はシュッツとフッサールに関する論文だね(「A・シュッツの〈自然的態度の構成的現象学〉――E・フッサールとの乖離」1985年)。今でもこの時の考え方が、すべての基礎となっている。君たちの場合にも、最初に書いた論文がある程度、将来のものの見方・考え方を予言していると思う。若いうちの勉強は大事だよ。同時に、若いうちの勉強は、ある程度将来を決めるから、恐いよ。
 聞き手 なぜこの問いをはじめにお伺いしたかというと、井門先生の学問スタンスというのは組織論、より大きくいえば社会学的な考え方をおもちであったと思います。しかしながら、星川先生が現象学、後には哲学・宗教哲学という、学恩を授けていただいた師匠の井門先生とは別の方向に行かれていますが。
  星川

井門先生は、僕に実証的な研究をさせたかったようだ。でも、井門先生の授業というのは、非常に理論的なものであり、哲学の話もけっこうあった。それで、シュッツ、バーガー、ルックマンに興味を持って、それ以来、僕の関心は「リアリティと言語」の問題にある。
これは30年以上たった今でもまったく変わらない。この問題意識は、『統合失調症と宗教――医療心理学とウィトゲンシュタイン』(医療心理学の松田真理子氏との共著、創元社、2010年)、および、25年の研究生活の集大成である僕の主著『宗教と〈他〉なるもの――言語とリアリティをめぐる考察』(春秋社、2011年)にも貫かれている。この本は非常に評判がいいから、ぜひ読んでほしい。『宗教研究』や『宗教と社会』にも書評が掲載された。
社会学についても、実証的研究はしていないが、もちろん、ウェーバー、デュルケム、パーソンズなどの重要な古典は、ほとんど読んだ。今となっては、すべて忘れてしまったが(笑)。

 

ついでに、嫌がられるのを承知で自慢話をすると、「言語哲学からみた統合失調症(1)(2)」という連続論文も、「多文化間精神医学会」という学会の審査にパスした。どうしてこういうことを言うかといえば、僕の研究の一貫性を言いたいからだ。「言語とリアリティ」というテーマは一貫している、ということ。研究者というのは、やはりどこかで研究の一貫性が大切なような気がする。

TMの実証的研究、シュッツを中心とする現象学的社会学、宗教言語の論理学的分析、宗教体験論、宗教言語ゲーム論、宗教間対話論、ウィトゲンシュタイン研究…。何をやっても続かなかったが(苦笑)、このテーマ(宗教の言語とリアリティ)は一貫している。もっとも新しい、脳科学をあつかった論文「脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し―― 心脳相互作用論と体験重視の宗教哲学との場合」(『大正大学研究紀要』第29輯、2012年)においてもだ。

 

しかし、井門先生からは、「お前はいろんな方面に手を出しすぎる。1つのことに集中しなさい!」とお叱りを受けたこともある。歳をとって、先生のおっしゃったことの意味が分かってきたので、僕が指導している学生・大学院生には、そういうふうに指導している(笑)。君たちも、1つのことに集中したほうが良いよ! そして、それが、集中する価値のあるものだといいね。もしくは、将来の研究に繋がっていくものであるといいね。

 聞き手 学問的な関心は今おおまかにお話ししていただいた点かなと思うのですが、そこに星川先生の個人的な関心というのは何か加わってこないのでしょうか。たとえば、誰々の死に、そういった宗教的、もしくは実存的な体験をお持ちとか、そういったものとは別個にお考えなのでしょうか。自分の問題として学問上の関心がつながっているのか、もしくは、星川先生にとって学問上の関心は学問上の関心というように分けて考えていらっしゃるのかどうかということです。
  星川

それは微妙。人間は、生きている限り言葉を話すし、リアリティを感じながら生きている。言語とリアリティの関係を勉強するということは、自分の生きることそのものの勉強である。だから、自分が生きるということと僕の学問とは相即の関係にある。
しかしながら、キリスト教などの一神教的思考にはなかなかついていけない。比較的よくわかるのは仏教だ。それも、「空」とか「縁起」とか、哲学的な側面に興味をひかれる。しかし正直なところ、僕には、こうした哲学的思想がどうして「慈悲」と結びついてくるのか、つまり、空・縁起と慈悲との論理的な関係、これが判然としない。誰か説明してくれると、ありがたい。


また、恥ずかしいから言わないが、現在はかなり明確な死生観を持っている。けれども、これが僕の学問に直接反映することはない。「人はいかに生きるべきか」みたいなことについては、一切/一行たりとも書いたことはない。今後も、そういうことについて書くつもりはまったくない。その理由は、自分にストレートに返ってくるから、恥ずかしくて書けないから(笑)。だから、宗教を研究しても対象になるのは、言語とかリアリティとか認識とか、そういうようなところ。しかしそれでも、いろんな宗教を知ってみると、人間の営みとして、非常に心をひかれる。

 

ところで、宇宙葬を希望している僕だが、最近、親父のお墓を建立した。春秋社の『春秋』(2012年4月号)の巻頭に、「わが家のお墓ができるまで」というエッセイがある。ここに、僕の死生観をふくめた宗教的なことが登場するよ。

 

2.【ウィトゲンシュタインとの出会い】 Coming Soon...

3.【現在の関心ごと】 Coming Soon...

4.【宗教学を学びたい人へのアドバイス】 Coming Soon...

 

(2010年インタビュー)

教員紹介: 寺田 喜朗 先生   ➢教員プロフィールはこちら

  • 【屋久島から東京へ: 身近にあった宗教、宗教社会学との出会い】
  • 【院生時代 修士: 藤井ゼミに入って、台湾生長の家へ】
  • 【院生時代 博士①: 西山ゼミでの指導、 活発な議論】
  • 【院生時代 博士②: 台湾で日系新宗教を研究すること、博論執筆中の生活】
  • 【単著を刊行して:「実証的にものを考える」、最近の研究動向について】
  • 【教育者として: 興味関心の芽を見逃さない、研究と勉強】
  • 【最後に: 大学院進学を目指す人へのメッセージ】
 
2020年8月5日(水)、本研究室OB・OGである長島三四郎・中村悟眞・大場あや の3名が
寺田喜朗先生に zoomにてインタビューを行いました。
 
内容盛りだくさんです!! ぜひご覧下さい。
 

1.【屋久島から東京へ: 身近にあった宗教、宗教社会学との出会い】

大場あや(以下、大場)

今回は、寺田先生にこれまでの経験を振り返っていただきながら、研究者と教育、それぞれの側面について、詳しくお話を聞いていきたいと思っています。

この教員紹介ページは、これから大学院に進学する人たちを主な読み手として想定していることもあり、先生が大学院時代にどういった指導を受け、どういうことを大切にしてこられたのか、それが今の寺田先生の研究と教育にどのようにつながっているのか、といったことを中心にお聞きしたいと思います。

 

我々3人は、寺田先生の指導学生でもあります。先生のご研究や魅力を知ってもらうには、何をどんな風に聞けばいいのか、私たちなりに考えてきましたので、初めてで慣れないことばかりですが、本日はよろしくお願いいたします。

寺田喜朗先生(以下、寺田)
こちらこそ、よろしくお願いします。
大場

では、先生のプロフィールを簡単に紹介させていただきます。

寺田喜朗先生は、1972年、鹿児島県屋久島のご出身で、1996年に東京学芸大学を卒業後、1998年に同大学院修士課程、2007年に東洋大学大学院博士後期課程を修了され、博士号を取得されています。小・中・高・大学をはじめ様々な学校の教員をお勤めになった後、鈴鹿短大を経て、2011年から大正大学で教鞭をとられています。

ご専門は宗教社会学で、生長の家をはじめとする日本の新宗教の海外受容や教導システム、教祖の思想といったテーマから、地域社会や国家との関係に至るまで、あらゆるテーマで論文を書かれています。

寺田
あらゆるテーマは言い過ぎ(笑)
大場

研究手法に関しても、文献研究はもちろん、数多くのフィールドワークに取り組まれ、とりわけライフヒストリー法を中心とした質的調査については、我々も多くを学ばせていただいています。今日はその辺りのこともたくさん伺いたいと思っています。


さて、メインの1つである大学院時代の話に入る前に、宗教学や宗教社会学に出会ったきっかけについてお聞きしたいと思います。先生は、屋久島で生まれて、中・高時代を鹿児島で過ごされた後、東京学芸大に進学されたわけですが、どういったきっかけ、または経緯で宗教学・宗教社会学を学ぶことになったのですか。

寺田

そうですね。僕は屋久島のとある集落の出身なんです。その集落は、僕の親父が3歳とかそのぐらいのときに集団で移住し、開拓によって生まれたところなんです。それが、営団という、Wikipediaでちょっと引いてみると、その頃、近衛内閣の総動員体制下に住宅供給拡充を担う実施主体として設立された特殊法人みたいなんですけど。ま、戦前の拓殖事業とか、満州とか。当時は、あちこち関連した官民協力事業があったと思いますが、そういうものの連続線上に、国策に沿う形で屋久島に生まれた新しい集落が僕の出身地です。

ちなみに地元では、営団という呼称は嫌われていて、今は、宮之浦の川向かいとか、並木町とか呼ばれてますけど。


では、移住前はどこに暮らしていたかというと、屋久島の北にある一湊という集落なんです。

一湊は、往事はトビウオ漁がとてもさかんなところでした。柳田国男に激賞された梅棹忠夫の論文にも出てきます(「ヤク島の生態」『思想』32-7、1951年)。その集落が二つに分かれ、屋久島の別な場所を開拓する形で移り住んだわけです。

背景には、トビウオ漁に依存する不安定な地域経済と集落人口の飽和ということがあったとは思うんですが、その直接のきっかけになったと言われているのが、浄土真宗のお寺の門徒の分裂だったんです。どちらの先生に付いていくか、みたいな話がトリガーとなって移住を決意した、と。ま、大体そんな話だったと聞いています。

 

いずれにせよ、当時、営団とよばれたその集落の結束は固く、それは真宗の講の伝統に基づいていました。

後になって僕は気づくんですが、屋久島が全体として篤信というわけでもないんですね。他の集落と比べ、営団の人たちはとても信仰熱心でした。ま、特殊と言っていいかもしれませんが。

毎朝毎夕、年寄りは墓参りに行くし、僕らの親の世代になると、毎日行くわけじゃないけど週末は欠かさず行きました。今でもお盆は精進です。もちろん、みんな教行信証を通して読んだことなんてないわけだけど、夕方になると正信偈が聞こえてくるのが日常だったんです。

ま、漁師集落というのは、仏壇信仰というかお墓信仰というか、そういうのが強い傾向があるけれど、とにかく僕の場合、生活と宗教が、非常に密接に関係したところで生まれ育ったということがあります。

 

それが中2のとき、僕は屋久島から出してもらって、鹿児島市内のおばさんのところで暮らすようになるんだけど、鹿児島の人たちは、僕らが当たり前にやっていたことを誰もやってないんですね。毎日仏壇に手を合わせるわけでもないし。島では、毎週墓参りに行かないと、コミュニティの常識を共有していない、そういう不文律みたいなのがあったんだけど、鹿児島に来たらそんなのないんですね。墓参りなんか、お盆とお彼岸だけ。一度も行ったことないって友達もいたりして。

そういういわゆる世俗化された普通の本土の人たちの暮らしというか、日本社会の現状に接すると、やっぱり強いショックを受けたわけです。

屋久島から鹿児島という地方都市に移ったときのカルチャーショックというものは、その数年後、東京に出てきた時に感じたものより遙かに大きかったのですが、そのギャップの象徴が、お寺とかお墓とか仏壇とか、いわゆる宗教に関することだったんです。

ですから、そういう意味では、もともと僕の中に、宗教と社会に対する興味はありました。

ただ、それを学問的に研究してみようとか、研究の道に進もうと思っていたわけでは全くないんです。

 

そういうカルチャーショックの下敷きみたいなものはあったけど、じゃ、そういうテーマを学問的に研究してみたらおもしろそうだと思ったのは、大学時代にたまたま取った宗教学の授業がおもしろかったから。

僕はもともと社会学の研究室に所属してたんだけど、たまたま履修した他学科の藤井(健志)先生の授業がおもしろかったんですね。それで宗教社会学・新宗教研究をやることになるわけ。藤井先生がやってるのが新宗教研究だったから、そういう流れですね。台湾についても同じです。

学芸大には当時、芳賀(学)先生もいらっしゃったんだけど、藤井先生・芳賀先生、両先生とも宗社研(宗教社会学研究会)の関係者。西山(茂)先生の指導を受けることにつながるのも、その流れですね。

ま、話を戻すと、もともとの宗教社会学に関心を抱いたきっかけというのは、そういうコミュニティと宗教が密接に関係したところで生まれ育った経験が下敷きになっているわけです。

 

ただ、屋久島の話を絡めると、それだけでもないんです。話はちょっと脱線してしまうけど、屋久島って僕の学生時代に世界遺産に登録されたんです(1993年)。そのお陰で有名になって、観光客も増えて、ありがたいことです。

で、その世界遺産ですが、登録エリアって島の全面積の21%なんです。残りの森はそうじゃない。程度の差はあれ、伐採されてきたんです。戦後復興の用材林として。
世界遺産登録のきっかけというのは、遡って考えると1982年に当時の農林大臣(田澤吉郎)が屋久島に来て、既に決定していた「瀬切の森」伐採計画を白紙撤回させた一件にあるんです。既に公的手続きを踏んで決定していた国家プロジェクトだったんですが、ここはやっぱり伐採すべきじゃない、千年の森というのは残すべきなんだ、ということで林業施策を撤回させたことがあったの。その一件がきっかけで、「瀬切の森」は保護区に指定され、当時の環境庁がきびしい保護の網の目をかけ、最終的に世界遺産の登録地になったっていう経緯があるんです。

 

で、そのとき、色んな方々が屋久島の森を守るために動いてくださったの。地元の関係者だけでなく、鹿児島大学とか京都大学の先生方とか、いろんな人や団体が動いてくれて林野行政の転換に至るわけなんだけど、その中で、動いてくれた国会議員が3人いたんです。

1人は社会党(岩垂寿喜男)で、残る2人は宗教団体の関係者なの。1人は公明党つまり創価学会ですね(原口勲)、もう1人は村上正邦さん、自民党の重鎮ですが、それより日本会議というか谷口雅春の信奉者ということが大きい。彼を動かした原動力は生長の家の信仰であり、彼を巻き込んだのも屋久島在住の谷口雅春の信奉者であり、と。

やっぱり当時、自民党の主流というか保守本流は、国土総合開発・開発経済だから、自然を守るとか、そんなの全然聞く耳持たない。地元にお金を落とすことが正義なんです。やっぱり僕はね。目の前の小銭に目がくらんで千年の森を伐り倒すより、大切に保全した方が有用性がある、というか観光資源としての持続可能性があると思う。やはり反対運動に挺身された方々には先見の明があったと思うんです。

もちろん、役人の側からすれば、既にきちんと手続きを踏んで決定されたことなわけで、それを反故にすることなんてあり得ないわけですが。

 

しかし、ね。やっぱり屋久島出身者の立場からすれば、一度伐ってしまった森は復元できないわけですから。失うのは一瞬ですが、育てるのは千年かかるんです。

だから、これはルール上、適正だからと言って、ちゃんと手続きを踏んでいるからと言っても、ダメなものは絶対にダメ、止めるべきことは止めるべき、と。そういう信念に基づいて行動してくれる人を尊敬しますよね。独自の価値基準というか、世俗的な常識を逸脱してでも人間としての良心・信念を大切にする、というか。ま、世間的な常識からずれていても正義を貫く超人的営為を僕は評価したいんです。

もちろん、正義は立場によって異なるし、日常的に超人(スーパーマン)が活躍する世の中というのはダメですが(笑)。

ただ、ルール自体が自分たちの世代で決まったわけじゃないケースはたくさんあるわけで、その妥当性というのは不断にチェックすべきだよね。

 

話を元に戻すと、たとえ世間・社会から非難されても信念に殉ずるというか、良心をまげないというか、そういうことができるのが宗教者なんだと思っています。

僕は創価学会員でもなければ、日本会議に賛同するものでもないんだけど、ただ、そういう信念をもっている方々へのリスペクトというか、積極的な意味での興味・関心はあります。普通の人じゃできないことだから。そういう力を与える源泉というか、そういう部分ですね。

ま、屋久島出身者としては世界遺産登録に至る歴史を知ってほしい、ということもあって話してしまいましたが、ま、長い余談でした(笑)。すみません。

大場

なるほど~。今のお話、初めて伺ったので、ぜひ掘り下げたいのですが…時間も限られていますので、今度また詳しく聞かせて下さい!

藤井健志先生の授業がおもしろくて、藤井ゼミに入り、学問的な関心を深めていったということですが、それは学部3年生の時ですよね。

寺田

そうです。

大場
その後、就職ではなく、大学院に進学しようと思われたのはなぜだったのですか。
寺田

僕は学部時代、アメリカン・フットボール部だったの。というか、4年間、アメフトしかしてなくて。これで卒業しちゃっていいのかな、というのはあったの。体育会だから週5回、拘束されて。残りはバイトです。貧乏学生ですから、みっちり。せっかく東京まで出してもらったのに、運動部だけの大学生活でいいのか、という思いは強くあったんです。僕だけでなく、同期も就職活動を放棄して4年目のシーズンに臨んだんだけど、そうなると教職浪人か、大学院に行くか、留年する選択しかないんですよ。ま、僕の場合、大学院に行こうと思い立ち、受験したら合格させて頂いたんだけど、フランス語を落として留年しちゃったという(笑)。それとバブルがはじけて、とにかく就職がとっても厳しかったというのは当然あります。

 

学問の世界には興味があったんです。やっぱり3年生の時、藤井先生と新疆ウイグル自治区へ旅行に行ったのが大きかった。上海からウルムチに飛んで、トルファン、カシュガルへ。ウイグル自治区と言えば、今すごく問題になってるけど、ようやく日本の国会議員も超党派で動き出した感じだよね。僕らが行ったのは1993年、何を見ても聞いても刺激的でした。ま、その旅行をきっかけにして、すごく学問に興味が湧いたんです。というか、知的好奇心を痛烈に刺激されたわけです。藤井先生や同行した友人との会話からも。ただ、勉強はしたくても体力的・時間的にいっぱいいっぱい、というのがあって。だから、やり残した感がすごくあった。

留年した5年目ですね。アメフトを引退し、好きなだけ本が読めるようになって。引退したら急に頭が冴えた、というか、むずかしい本を読んでも眠くならないし、頭に入るようになったんです。急になんだか賢くなった気がしたし、何かおもしろくて仕方がない、そういう感じでした。

 

だから、せっかく時間ができたわけだから、もっと勉強がしたい、という感じになって、色々知り合いの伝手をたどって色んなゼミにもぐらせて頂きました。東洋大学の西山(茂)先生のゼミも最初はモグリで参加してました。当時武蔵大にいらっしゃった西原(和久)先生とか、他にもちょこちょこ厚かましくお邪魔させて頂いて。あ、ちょっと後の話だけど大正大にもぐらせてもらってたこともあります(笑)。研究会にも色々参加させて頂いて。当時はオンラインのコミュニティはないからね。社会学や宗教学だけじゃなくて色々。そのタイミングで大学生活をやり直したような感じかも知れませんね。

大場

関心がどんどん広がっていく時期だったということですね。

では続いて、修士課程に入ってからの話を聞いていきたいと思います。聞き手を中村さんにバトンタッチします。

 

2.【院生時代 修士: 藤井ゼミに入って、台湾生長の家へ】

中村悟眞(以下、中村)

寺田先生の院生時代のお話をお聞きかせいただきたいと思っております。

私は、修士課程に入りたてのとき、不勉強をもって先生に絶句された学生の一人でした(笑)。今回は先生が院生時代にどのように勉学に取り組まれたのか、さまざまお聞きしたいことがございます。この度のインタビューに当たって、先生がご寄稿されている西山茂先生の古稀記念論集、藤井健志先生の退職記念文集を読ませて頂き、寺田先生にとても詳しくなってしまった感じです(笑)。

 

まず、先生が修士に入られて、先ほどおっしゃられていましたが、学問的な興味関心が広がって、色んなゼミに入って勉強されていらっしゃった。そして、それぞれのゼミではどんな本を読まれていらっしゃったのか、当時の学問の潮流とはどのようなものであったのかなど。せっかくの機会ですので、そういうことを伺いたいと思っております。

寺田

そうですね。トレンドは幾つかあったと思います。当時の社会学では、やっぱりP.ブルデューとA.ギデンズが人気ありました。あと、J.ハーバーマスとかN.ルーマンとか。ルーマンは難しくて僕は読まなかったけど(笑)。それからJ.ボードリヤールも読まれてたし、E.ゴフマンやI.イリッチも人気があったんじゃないかな。学芸大の社会学研究室は、その後、研究者として活躍されてる先輩方や後輩諸氏を何人か輩出してるんですが、当時は、何人かでグループをつくって読書会形式で本を輪読することが常でした。

 

指導教員だった野呂(芳明)先生のゼミで読んだのは、R.ベラーとかC.フィッシャーというアメリカの都市社会学の人とか。あまり内容は覚えてないけどD.ブーアスティンはおもしろくなかった、という記憶だけがある(笑)。野呂ゼミで輪読して一番おもしろいと感じたのは、ベラーの『心の習慣』です。

 

もちろんE.デュルケム、M.ウェーバーは基本中の基本。『社会学のあゆみ』や宮島(喬)先生や安藤(英治)先生の有斐閣の解説書を片手に自力で読みました。精読したのはアメフトを引退したタイミングだったかな。それまで難しいと勝手に決めつけて斜め読みしてたんだけど。引退して、時間と体力に余裕ができたので読んでみたら、さらさらっと入ってきて。もちろん、ウェーバーの全部じゃないよ。プロ倫とか、そういうの。すごくおもしろく感じた。やっぱりウェーバーの『宗教社会学』は情報量が多くて、ちょっと難しいと思ったけど、『宗教社会学論選』とかは、なんとか読んだ。

ただ、ウェーバーは基本的にヨーロッパ文化に関する知識というか教養が不足してるとピンとこないところがあるよね。

T.パーソンズは、当時はあまり人気がなかった。エスノメソドロジーは、僕はあまりおもしろいと思えなかったけど、先輩方は熱心に勉強してた。社会構成主義とかは、僕が大学院に入ってから。野口(裕二)先生や浅野(智彦)先生が議論を牽引されてて。

 

今まで話したのは、社会学研究室の話。一方で僕は、藤井先生が主催する日本文化ゼミというのにも入っていたの。そっちは民俗学とか日本文学とか歴史地理学とかの先輩方が集まってできたゼミ。僕が入る前は、E.ホブズボウムとかイーフー・トゥアンとか読んでたんじゃないかな。僕が入ったときは、B.アンダーソンの『想像の共同体』。当時はすごく影響力があった。冷戦後の世界をどう見るか、という関心も相まってね。

それからE.サイードの『オリエンタリズム』。これもすごく影響力があった。

 

あとはサイードがフィーチャーしてたM.フーコーね。フーコーは、T.フジタニさんの『天皇のページェント』でも大きくフィーチャーされてて。それで読まなきゃダメだなってなったの。フーコーについては、ゼミで読んだのは『監獄の誕生』。『監獄の誕生』は割とおもしろく読めたんだけれど、他の作品はあまりピンと来なかった。ま、『監獄の誕生』もあまり正統的なアプローチじゃない、というか、アクロバチックな歴史研究だと思ってるけど。西洋史やってる人からすると、何これ?みたいな印象だったんじゃないかな。ま、フーコーについてはインタビュー集が日本語訳で出てるから。アイデアさえわかってちゃえば十分かなって思うけど。考え方はおもしろいんだけれど、論証の仕方は、ちょっとあまり真似しない方がいいんじゃないか、と思ってる。ピエエール・デーヨンだったっけ。同じタイミングで監獄の歴史研究が出てたはずだけど。安丸(良夫)先生の監獄論文もゼミで読んだ。

中村

A.シュッツなどを読まれていたのも、この時期でしょうか。

寺田

そうそう。当時、一番一生懸命読んでたのは、A.シュッツ。5年のときに、紀伊國屋書店の『現象学的社会学』というオムニバスを藤井先生のゼミで読んで、その後、それに続けて『社会的世界の意味構成』を読んだんだけど、難しいのね。よく理解できる章と、ちょっとよく分からない章もあって。

それでシュッツの専門家の西原先生のゼミにもぐったわけ。シュッツについては、社会科学基礎論研究会という研究会にも参加させていただきました。ま、二回読むとね、自分なりにはわかったという気がして。ま、シュッツがわかると、T.ルックマンとか…

中村
P.バーガーとか…
寺田

そうそう、バーガーとかね。あの辺の議論なんかは、シュッツの理論をアメリカ人にも理解しやすい形にパラフレーズしてるような印象だけど。ま、とはいっても、バーガーのもヨーロッパ的な知識というか情報が結構多いからね。いろんなことを知らないとよく理解できないところがあるよね。
だから、テキストの読み方には、細かい引用とかいろんな情報がわかんなくても論旨だけわかればいいっていう読み方と、きちんと事例の意味や例証されてることの含意やテーマやタームについての背景知識がわかって読む読み方と二つあると思うんだよね。やっぱりちゃんと事例の意味も含め、深くしっかり読むことを土台にしてないと、やっぱり研究上というか、論文では、うまく使えない感じはするよね。ま、その頃は、発想のヒントというか、そういう類いのものを色々学んだ気がしてるけど。

 

そうそう。日本文化ゼミでは、前田愛さんの『近代読者の成立』とか、網野善彦さんの『日本論の視座』とか、柄谷行人さんの『日本近代文学の起源』とか、川村湊さんの柳田批判とか、その辺なんかも流行っていたし。網野さんについては、こないだ対談集を読み返す機会があったんだけど、やっぱり、ホンマかいな?っていう印象を改めて抱いたけど(笑)。何というか、網野さんとか梅原猛さんとか、ああいう壮大な文化史というか、読み物としての学問というか、ああいう大胆な作品の魅力ってのはやっぱりあると思うよね。今の若い読者が読んでもおもしろいんじゃない。

 

あと、5年生のときに読んだのは、先輩達がかぶれていたニューアカね。浅田彰さんとか中沢新一さんとか。大学に入ったばかりの頃に読んだら歯が立たなかったんだけど、5年生になって読んだら前より全然わかるって感じになってた。というか、逆にその時は、批判的に読んだ記憶がある。現代思想のガイドブックとしては有用だと思ったけど、どちらかというと、あまりピンと来なかった。

藤井先生から薦められた鶴見俊輔さんの『戦時期日本の精神史』とか鶴見良行さんの『ナマコの眼』とかの方が断然おもしろく読めた。

中村

それらのご本を読んで勉強されて、そして先生は具体的な実証研究、新宗教研究に入っていくわけですが、そのきっかけというのは、藤井先生の新宗教ゼミで実証研究・論文に触れたというのが、やっぱり一つのきっかけでしょうか。

寺田

決定的ですね。だから、そうだね。おもしろい本は世の中にたくさん溢れていて、ま、当時は、I.ウォーラーステインの『世界システム論』とか、H.アレントの『革命について』とか、やっぱり感銘を受けたけど、そういう大作ばっかり読んでると、弁は立つようになるけど、自分の研究ができるようにはならないわけ。というか、専門的な研究の手法が身につかない。

 

僕の非系統的な乱読傾向を見ていて、藤井先生が新宗教ゼミという日本文化ゼミと別のゼミをつくって下さって、『新宗教事典』を輪読する機会を設けてくれたの。そこでは、ここはどんな資料を使ってて、とか、どういう研究史を念頭に置いて書かれている、とか、そういった研究者視点の解説をして下さったの。研究者は、どんな視点から、どんな作業をして文章を書いているのか、具体的に教えてもらいながら読み進めたの。

 

それで、さっき一つひとつの事例の意味がわからなくても読み進める読み方と、一つひとつの事例や用語の意味をきちんと踏まえて読む読み方とはちがうという話をしたけど、『新宗教事典』の輪読を通して後者を学んだわけね。実際のフィールドワークの様子とか、一次資料の扱い方とかに触れてもらいながら。それを踏まえて、こういうふうに書いている、ということを教えてもらったの。やっぱり研究ってそれじゃない。よくわからないことは書いちゃいけないわけであって。今日もショーペンハウアーを読んでたんだけど、これも研究上の必要から読むわけであって、自分の専門じゃないからね。

 

ま、話を戻すと、知らない知識がたくさん紹介されてて勉強になっておもしろいとか、最先端の理論や学説が知れておもしろいっていうのと、やっぱり全然意味が違ってたわけ。研究論文とか、研究者の文章というのは、こういうふうに書かなきゃいけないんだということを教えて頂いたわけだけど、おもしろいな~とすごく思いましたよね。そこで新宗教のおもしろさというより、新宗教研究のおもしろさに開眼したというか。『新宗教事典』自体が凄い本だったし。ま、それが僕の研究の道の始まりみたいなものですよね。

中村

修士課程に入ったからには、成果として修士論文というものを執筆しなければいけないわけですよね。そうなったときに、藤井健志先生が道を敷いてくださって。学問的な興味を広げるのは、もちろんそれはいいことなんだけれども、専門性というところでなかなか研究につながっていかない、と。

寺田先生が、生長の家の研究に入っていく、そのきっかけじゃないですけれども、それも藤井先生のご助言というか、ご提案があって、ということですか。台湾に行ったりとかも。

寺田

藤井先生に提案して頂いたのは、台湾の日系新宗教の研究をやってみたら?ということ。藤井先生が台湾の日系新宗教の調査をなされてて。それで僕が何を研究するか、フラフラしてて決められない時に、台湾の新宗教の研究をやってみたら、と言って頂いて。藤井先生が既に研究されてるじゃないですか、みたいなことを言ったら、いやいや、もっともっと調べなきゃいけないことがまだまだあるからって背中を押してくださって。

1996年の9月だったかな。アルバイト代を貯めて単身で。10万円くらいだったかな。15万円ぐらいだったかな。とにかく1か月の日程で台湾に行くと決めて。台北ホステルっていう安宿に泊まって。ドミトリーは1泊200NTだったんじゃないかな、当時は。

 

当時は、インターネットもないからね。事前に、藤井先生から天理教、本門仏立宗、霊友会、立正佼成会、生長の家、世界救世教、創価学会、真如苑の台湾支部の電話番号と住所を教えて頂いて。それで台湾に着いてから電話して、お話を聞かせて頂きたいんですけどってアプローチして。ま、飛び込み調査ですね。若いからそれも許されたわけだけど。今、この年齢でやったら問題ですね(笑)。ま、とにかくそれを繰り返したわけです。

 

あ、それと、向こうに行ってから、せっかく台湾に来たんだから、ちょっと島をまわりたいなと思って。台中、埔里、霧社、日月潭、梨山、太魯閣と半周しました。ヒッチハイクとかして(笑)。行く途中で、中台禅寺という、当時、台湾で社会問題になっていた出家主義の禅道場も訪問しました。親とか学校を捨てて出家しちゃうってんで、当時マスコミで報道されてたの。今は四大道場として市民権を得てるみたいだけど。そこで若い尼さんにお話を伺いましたね。エリート、台湾大とか行ってたのに、髪の毛剃って出家したという、そういう方でした。仏光山の若い尼さんにもインタビューしたことあるけど、おもしろかった。そういう感じで、基本的には興味の赴くままに、無手勝流で、厚かましくお話を聞かせてくださいって感じで。あちこち訪問させて頂いてる中の一つに生長の家もあったの。

 

生長の家を研究対象にすることがいいとかよくないとか、そういう指導はなかったです。今考えれば、あまり生長の家に関して、踏み込んで研究をされてた宗社研の研究者はいなかったんだよね。というか、そんなに強いラポールを持ってらっしゃる先生はいらっしゃらなかった。西山先生的にも当時はあまり好みの教団じゃなかったと思うし(笑)。基本、宗社研って全共闘世代の産物だから、右派教団ってあまり好きじゃない人が多いと思うんだけど(笑)。そう、今の生長の家は違うけどね。というか、完全に左派の教団になってますが。

 

それで、生長の家は、あまりやられていないというか、島薗(進)先生がやられていたけど、あまりフィールドワークをされるタイプじゃないから。島薗先生のやり方は、テキスト読んで内在的理解を試みる、実存的な悩みから回心を読み解くスタイルでしょ。シコシコ現場に通って、聞き取りデータをコツコツ集めてって感じのスタイルではないですからね。

 

それで台湾の生長の家なんだけど、翌1997年の3月に40日間、滞在したとき、最初の訪問の際には会えなかったんだけど、王恵美さんを紹介して頂いて。最初の訪台のときには陳林秀美さんとか、陳楊金枝さんとか、張月華さんとか、色んな方によくして頂いたんだけど、2回目に行ったとき、台湾生長の家のキーパーソンである王承通先生の長女である王恵美さんを紹介して頂けたの。恵美さんとは、最初の聴き取りの時、6時間ぐらい喋ったのかな。18時頃から12時過ぎまで。その当時、ICレコーダーないから、ウォークマンのテープ録音なんだけど、90分テープ2本持っていったんだけれど全然足りなくて。ノートも全然書き切れなくて。そういう出会いがあったんです。強烈な印象を受けました。 

中村

台湾でそういう出会いがあって、どんどん人脈が広がって、人を介して、人の輪が広がっていって、そこで聴き取り調査をして、最終的に修士論文としてまとめられたと。

 

修士論文を提出したときに、藤井先生からの反応というのは、何か印象に残ったご指導とか、ここを厳しく指導された、などの思い出はありますでしょうか。

寺田

う~ん。ほぼなかったような…(笑)。卒論のときには、文章がひどいからって文章を直してもらったんだけど、修士論文に関しては、指導らしい指導というか、指示を受けたことは記憶にないし、提出後の口頭諮問でも、僕が文字数を数え間違えていたことを指摘されたくらいで(笑)。そんなに褒めてもらってないし、ダメだしもされてない。

 

ちなみに修論は、400字詰め原稿用紙で350枚ぐらいの分量を書いたと記憶してるけど、ずっと数え間違えてて。全部2倍換算で報告してたの。大学院の同級生は、毎週会う度に僕が2倍速で書き進めているから、ものすごく焦るの。なんで、寺田クンはそんなに速く書けるの!?って。僕からすると、なんでみんな書くのがこんなに遅いんだろうって不思議だった。単に数え間違えてただけだったんだけど(笑)。

 

で、口頭諮問のときに、僕が数え間違えていることを指摘されて。事前に報告してた2分の1の分量しか書いてないってことが判明して(笑)。だから、僕の同級生って、みんな結構な分量の修論を書いてるんですよ。僕が与えたプレッシャーのおかげでみんなよく頑張ったという…(笑)

中村
勘違いで(笑)
寺田

そう、勘違いで。いい迷惑(笑)

中村

そうなんですね。でも、意外ですね。何が意外かというと、修士論文をご提出された時の藤井先生のリアクションが、特に何もなかったということに。それはどう受け取ったらいいのでしょうか。先生はどういうふうに受け取られたんですか。何も反応を頂けなくて、そのときは、ダメなわけでもなく、いいわけでもなく、どういうふうに捉えたらいいのか。

寺田

藤井先生は基本的に放任主義なんだけど、ただ、ダメな子にはダメだとハッキリ言うし。

中村
なるほど。
寺田

放っておいても大丈夫と思ったら、放っておくというか、放牧じゃないけど、そういう感じだから。特にあまりうるさく言わないんですよ。このぐらいだったらいいんじゃないと思ったら、別に本人が納得いくというか、好きにやったらそれでいいという感じです。柳川(啓一)門下というか、東大宗教学研究室の伝統なのかも知れないけど。

 

それに対して西山先生はすごくダメ出しが多いの。とにかくダメ出しが多くて、僕もダメ出しされまくりました。言葉遣いから、タイトルとか、章の立て方とか、本当に基本中の基本がなってない!って。ま、これまで放任主義というか、無手勝流で、自分の感覚で好きにやってきているからね。だから、僕の最初の頃の文章は、自分が影響を受けた人の用語や表現がごちゃごちゃに混ざってたの。それダメなんだよね。系統が違う人の用語がごちゃごちゃにチャンポンされてるってのは、視点がバラバラにぶれてるわけだし。

 

ま、ある意味、自分の文章に酔っているところもあったと思うし(笑)。それはやっぱりダメ。イタいし、今から思うと恥ずかしいんだけど。ま、ただ、そういう恥ずかしい時期を一回くぐった方がいい気もするんだけど、まーね。そういうのを均してもらうというか、矯正して下さったのは西山先生です。 

中村

当時、同時並行的に、じゃないですけれど、西山先生のゼミにはモグリで参加されていたんでしょうか。

寺田

そう、モグリで行っていました。モグリで勉強させてもらってるとき、西山先生はものすごくお忙しくて。当時は学部長、それから副学長をやられて、大学改革に一生懸命取り組まれて校務がとてもお忙しかった。だから、西山先生は、世間的には陽気で、剽軽というか冗談ばかり言ってる人のように見られることもあるけど、遅刻とか礼儀とかにうるさい、というか、厳しい先生なのね。だけど、その西山先生が、当時は、いつも授業時間に遅れて来られてた。

 

それで、最初に行ったときなんかは、ゼミに20人ぐらいいるんだけど、年長者ばっかりなわけ。年配の人も多いし。だから、誰が西山先生かわからなくて。教室に入ってくる人に<寺田と申します、今日から参加させて頂いてよろしいですか?>とご挨拶に行くんだけれど、その人達もみんなモグリで来ているから、<違います、私は違います>とか言うだけで、誰も仕切ってくれなくて。それでやっと開始直前くらいに大谷(栄一)さんが来られて、それでご挨拶したら、<みんなモグリで来ているから、別に気にしなくていいよ(笑)。そこに座ってて>とかって。それで、西山先生がどかっと来られて、お、知らない顔がいるな、ってなって。ご挨拶に行ったら<お~、藤井君のところか。わかった。わかった>って感じ。

 

その頃は、西山先生のゼミは、先生もお忙しかったから、それぞれでやってる研究を順番に発表するスタイルだったの。大谷さんがいて、川又(俊則)さんがいて、角田(幹夫)さん、平山(眞)さん、小島(伸之)さん、井上(治代)さん、梅津(礼司)さん、渡辺(芳)さん、寺田(貴美代)さん、他にも結構いらっしゃったけどお名前がわからない。工藤(信人)さんや滝沢(健次)さんもいらっしゃったのかな。当時は、モグリでない正規の学生は大谷さんと渡辺さんの二人だけだったはず。えと、大西(克明)さんは、同じ歳だけど入ってくるのは僕より後。塚田(穂高)君や隈元(正樹)君が入ってくるのはずっと後です。

中村

錚々たるメンバーですね…

寺田

毎回学会発表みたいな。一つの発表が90分なわけだから。延長もするし。というか、西山ゼミは、途中から2コマぶっとおしの時間設定になったの。180分。飲み会もずっと議論してるから、長いよね。

だから、学会発表はラクというか、ゼミの発表では曖昧な記述や根拠のない議論は見逃してくれない、というか、許してもらえないからね。当初は、なんてレベルの高いところなんだろう…ってびっくりしたよね、すごく。先生も先輩方もよく知ってるんですよ。

 

3.【院生時代 博士①: 西山ゼミでの指導、活発な議論】

中村

学芸大で博士課程にそのまま進学しないで、東洋大の大学院博士課程に行かれたというのは?

寺田

いや、学芸大の大学院というのは、連合大学院というのが僕の進学する1年前くらいにできたんだけれど、それは教育学の連合大学院だから、社会学とか、宗教社会学とか、専門に勉強できるところではなくて。

中村

そういうことだったんですね。それは存じ上げませんでした。

それで既にモグリで参加していた西山先生のところに進学した、ということなんですね。

寺田
そのまま西山先生にお世話になりました。
中村
やっぱり当時、西山先生のゼミに一番最初に行ったときの衝撃って大きかったと思うんですけれど、指導方法というのは、藤井先生と西山先生では違ってたわけですね。
寺田

全然違いましたね。やっぱりね。全然違う。だけど、今、振り返るとね。西山先生の御指導を受けたと僕が言えるのは、西山ゼミに入ってちょっと経ってからなんだよね。ゼミにモグリ始めたあたりというのは、本当にまだ外様で。

それで1998年にドクターに入って、正規の指導学生になって。で、しばらくしてから西山先生に時間的な余裕ができて、それから研究指導に注力して頂いた、という感じですね。

 

科研で仙台の根白石とか筑紫野の塔之原とか調査したり、東北の創価学会をまわったり、立正佼成会の松山支部とか、あちこち調査に同行させて頂いて。そこで西山流というか、森岡(清美)流というか、東京教育大学流というか、そういう徹底したフィールドワークの仕方というか、研究の仕方というのを教えて頂く機会があって。そこで初めて、こういう時はこういうふうにしなければいけないのか、とか、こういうことを押さえなければいけないのか、とか。何かそれまでは研究発表のお作法とか、研究論文の書き方をもっぱら教わるような指導だったんだけれど、調査研究というか実証研究のやり方について、そこで勉強させてもらった感じですね。

中村

そういった共同調査は、寺田先生が西山先生の学生になってしばらく経ってからでしょうか。

寺田

そう、小島さんとか僕とかが上の学年になったタイミングで。そこで一番上の小島さんがものすごく叱られるとか(笑)、僕がケチョンケチョンに罵倒されるとか(笑)、そういうことの繰り返しで(笑)。

ま、厳しくご指導頂いたというのはありますね。先生からすると、小島さんと僕には言いやすいってのもあったかも知れないけど。

中村

おそらく叱られるというか、厳しくご指導いただくというのは、多分、我々の想像を超えるレベルの厳しさだったんだろうな…と想像されるのですが(笑)。

西山先生の古稀記念文集にも書かれているんですけど、当時、西山先生のゼミに入った頃というか、ドクターに進学した頃というのは、やっぱり先生の中では <外装型の思考様式>と書かれていましたけれど、そういうのをやっぱり矯正というか、そういうのはダメだ、と厳しく言い続けてくださったのが、西山先生だったんでしょうか。

寺田

そうそう、<巨人の肩に乗ってものを言うのはダメ>というのが、西山先生の指導の柱の一つなんですよね。水戸黄門の印籠のような議論はダメ。当てはめ型というか決めつけ型の議論。安易に流行に乗るのもダメ。

 

あと西山先生もそうなんだけど、先輩方も厳しいの(笑)。西山ゼミは、大谷さんを筆頭にみんなよく喋るし、西山先生に喋らせる前にゼミ生が気づいたことを指摘すべき、という暗黙の了解はあったよね。みんな、息を吸うタイミングでパッと入ってダダダーって喋って。次々に、みんなすごい早口でまくしたてる。そういう感じでした。

中村

ある種、先生に喋らせる隙を与えないというか、そういう感じですか。

寺田

だって、西山先生が喋り出すと、発表が5行とか10行で90分終わっちゃったりすることもあるの。タイトルがダメだと、タイトルでご指導が入ったり、最初の1行目で、こんな発想で研究発表とかあり得ないみたいな感じになると、ずっとお説教だから。丁寧な解説付きのね。

だけど、そうなると、そのレベルのことはみんな前提として共有してるから。聞いてる側はあまり勉強にならないわけ。だから、みんなが喋って、みんなで盛り上がるというか。みんな喋らずに、先生が一方的に喋ると、マンツーマンの指導を横で傍観しているだけになっちゃうから。

中村

やっぱり先生が、研究対象にどぶんと漬かる、とか、ドブさらいをやらなきゃダメだ、というご指導を西山先生から頂いた、というお話を折に触れてなされますが、指導学生に対しては、徹底的に叩き込まれたんですね。

寺田

文集には、「叩き込まれた」と書いたけど、自分ができてるかというと、ちょっと心許ないよね(笑)。

一番研究成果を出されてるのは、大谷さんだよね。小島さんは、なんというか貯めて貯めてやっと書く、みたいなペースだったけど最近は筆が速い。筆が速いと言えば川又さんも恐ろしく筆が速い。井上さんは、研究以外のところにも書かれるからね。ジャーナリストとしての関心が強い。

僕なんか、書くペースでいれば、中間ぐらいのペースじゃないかな。中道じゃないけど。

中村

まさに中道を行く(笑)

寺田

やっぱりある程度のペースで書かなければまずいと思うんだけど、西山先生が嫌うのは、ちゃんと調べないでものを書くことなのね。憶測でものを語るのは絶対ダメというのはあるの。とにかく資料、フィールドもそうだしね。裏を取れ、と。片方からではなく。

文献調査にしてもきちんと読み込んでというか、ちゃんと色んな事がわかってから書かなきゃダメだということをうるさく言われたの。

中村
この頃、博士課程の頃ですが、先生が書かれている論文で、『構築される信念』(ハーベスト社、2000年)に収載されている「20世紀における日本の宗教社会学」が、一番最初に公刊されたご論文ということですか。
寺田

本はそうだよね。それまでに書いてるのは、大学院の紀要と『現代社会理論研究』と『白山人類学』に書いた台湾の生長の家の関連論文かな。

中村

僕は、『現代社会理論研究』(9号、1999年)の「宗教的回心と文化的コンテクスト」論文が、一番好きな論文です。

寺田

ハワイと台湾でやってることが近いからね。

中村

台湾の生長の家のご研究を進めながら、『構築される信念』に収載されている論文とかを並行してお書きになったんですか。

寺田

あれは、大谷さんのご指導が一番大きいです。

中村

そうなんですね。あと、内在的理解についての「内在的理解の方法的地平とは何か」(『年報 社会科学基礎論研究』2号、2003年)。島薗先生の中山みき論文を再検討する論文ですけど、あれを書いたら、西山先生に厳しいご意見を頂いた、ということが文集に書かれていましたけど。

寺田

ああいう論文を西山先生は嫌うんですよね。僕としては、言えてるんじゃないか、というのがあったんだけど、西山先生は思弁的な議論というか空中戦というか、一次資料に即して検証する形になっていない、解釈学的なスタイルの論考を嫌います。

しかし、せっかく論文書いたのに、頭ごなしに叱られるとやる気をなくすよね(笑)。

中村

やる気をなくす(笑)。何か、こんなことやってる暇あるの?みたいなことを言われたって書かれていましたけど(笑)。

寺田

多分、先生は覚えておられないだろうけど(笑)。言われた方は忘れられない(笑)。

論文をコンスタントに書かなきゃ叱られるし、けど、納得がいかないものとか、自分が評価できないものを書くと、こんなんだったら書かないほうがいい!って、つまらない論文は書くな!というご指導だったんです。書くな!と言われて、何も書かないとはじまらないわけで、就職にも何もつながらないわけ。やっぱりお話にならないと思うから、ダメでも書くわけだけど。

 

だから、そういう意味で、先生をギャフンと言わせる論文を書くこと、納得してもらえる成果を出すことが目標でやってきてるわけなんだけど。西山先生は、なかなかギャフンと言わないんです(笑)。

中村

何を書いてもギャフンと言わないんですか(笑)。

寺田

何を書いても、全然ギャフンって言ってくれないですね。

 

 

4.【院生時代 博士②: 台湾で日系新宗教を研究すること、博論執筆中の生活】

中村

それで、西山先生の下で、いろいろ調査をしたりとか、論文を書かれたりとか、調査も地域調査だったり教団調査もあったり。

教団調査はどんな感じだったんですか。

寺田

教団調査は、圧倒的に西山先生のご指導が大きいんですよね。「戦後の新宗教運動と教導システム」論文(『本化仏教研究所 所報』創刊号、2018年)に書いた霊友会の弥勒山合宿の調査なんかも西山先生の紹介です。

 

あれは、もともとは、後輩の富樫(明史)クンと水野(典子)さんという院生がいて、二人は同じ学年でたまたま二人とも霊友会で修論を書きたいと。二人とも西山ゼミの後輩ね。それで、実際の現場に行かずに修論を書くのはダメだというので、西山先生が教団につないでくれたんです。

なんだけど、先生は、自分がわざわざ行くのもあれだし、ということで。というか、霊友会は分裂騒動が収まってなかったから、どっちかの側につくというのはあまりよろしくない、というご判断だったんだと思うんだけど。それで西山先生の名代じゃないけれど、僕が二人のお目付役じゃないけど、引率役で付いていったわけ。

 

そういうひょんなきっかけで合宿修行に参加させて頂いたんだけど、ああいうコアな場を見学させて頂けたのは、もの凄くありがたかったね。やっぱりここが神髄という部分を見せて頂けて。そういう場面を実見すると、読んでいるテキストの意味というか、今まで読み飛ばしてた記述の含意とかもわかるようになる。現場に足運んでいろいろ見学させてもらうのって、もの凄く重要だと思う。

 

ま、これは、中村クンとか大場さんとか長島クンとかも、いわきで創価学会の座談会とか参加させてもらったわけじゃない。ああいう場を実際に見て、空気を感じることによって気がつく事ってたくさんあったと思うんですよ。

弓山(達也)先生に連れて行って頂いた天理教・黒住教・金光教の本部もそうだし、星野(英紀)先生につないで頂いて村上(興匡)先生と一緒に行った高野山とかもそうだよね。百聞は一見に如かず、じゃないけど現場に足を運ぶことはとても大事。

 

ま、話を戻すと、西山先生からは、浄風会、本門仏立宗、法音寺、創価学会、立正佼成会等々、たくさんつないで頂いて。本当に色んなものを見学させて頂いて。それはとても感謝しています。というか、感謝しても感謝しきれないですね。

中村

寺田先生は、台湾の生長の家の研究で博士号を取られていますが、西山先生の下で受けた日本の地域調査の訓練が役に立った、というのはありますか。例えば根白石の調査とか。

寺田

やっぱり台湾は、日本のようにほしいデータが入手できるわけではなかったし、生長の家の信者も空間的に固まってるわけではなかったからね。生活連関を注視する農村調査の経験はあまり活用できなかった。

 

あと、僕がやり始めたタイミングで、日本語族って若林(正丈)先生とかが言っているような戦前に日本語で教育を受けた世代の人たちに関する実証研究をちゃんとやっている人って、中央研究院の黄智慧先生ぐらいだった。人類学や社会学の領域ではね。

そういうことをやること自体が、否定的に捉えられがちだった。日本の植民統治を肯定するつもりなのか、とか、中国語(北京語)・台湾語(閩南語)・客家語・原住民の言語で得たデータでものを書かないと台湾研究じゃない、とか。そういうのはあったと思うよね。

ただ、日本語で教育を受けた人たちが経験した歴史とか、共有している心性を真正面に見据える研究というのもやる意味はあると思うんだよね。

 

もちろん評論レベルでは司馬遼太郎さんの『台湾紀行』とか、そういうのはいくつかあったわけだけど。客観的な立場から、研究者がそういう問題を論じることにも意味はあるんじゃないか、というのはあったの。

その調査の過程で、蔡焜燦さんって知ってる?『台湾人と日本精神』の著者。司馬遼太郎『台湾紀行』や小林よしのり『台湾論』とかの案内人で情報提供者。その蔡焜燦さんなんかにもインタビューさせてもらったんだけど。蔡焜燦さんもやっぱり恵美さんのお父さんの王承通さんを介して谷口雅春の信奉者になった人なの。ただ、日本教文社との裁判があって。

だから、その辺も、注では触れてるんだけれど、ああいうのを大きく取り上げたら、多分世間的にはおもしろかったんだろうけど、あまり学術的には、そういうのを大きく取り上げるのはよくないなと。

中村

なるほど。やっぱり今、先生がおっしゃったように、当時の時代状況的に色々研究を進めることが難しいところもあったということですね。

それと、西山先生からなかなか台湾の生長の家で博士論文を執筆するということに対してゴーサインがでなかったということが文集に書かれていました。その背景には、どういった理由があったんですか。

寺田

やっぱり先生的には、博士論文にふさわしいレベルの論文になるか、というところが不安だったと思うんです。

やっぱり台湾研究は、すごく蓄積があって。それこそ伊能嘉矩・鳥居龍蔵の時代から。いわゆる原住民研究というのはすごく分厚い研究史があるし、漢族宗教の研究も戦前では森岡先生の先生である岡田謙先生もそうだし、戦後についても末成道男先生をはじめ、すぐれた研究が膨大に蓄積されてるわけ。

 

一方、政治史とか、経済史とかは、矢内原忠雄の時代から膨大な蓄積があるわけで。そういう中で、本当にニッチですよね。日本の新宗教を信仰するグループの研究をやって、はたして博士論文としてふさわしいクオリティの研究になるのか。こういうことについて疑問視されていた、というか、大丈夫なのか、というのが西山先生にあったと思うんですよね。

 

もう一つは、西山先生自身、台湾をよく知らなかった、というのもあったと思うんです。西山先生は韓国はお詳しいの。調査もされてるし。テグにご一緒した時も、両班のこととかよく知ってて、向こうの先生がびっくりしてたし。

一方、台湾には、当初あまり興味はなかったのね。だから、僕がライフヒストリー研究として王恵美さんや陳林秀美さんの話なんかを書いても、<たまたまそういう人に出会いました、たまたまこういうお話を伺いましたってんじゃ、社会学の研究にはならないヨ>ということはよく言われました。もちろん、理屈としてはわかるの。

たとえば、日本でね、外国の研究者がたまたまインタビューしたのが赤尾敏だったり永田洋子だったりとかした場合(笑)、ま、経験や情念が普通じゃない人っているわけですよね。外国に行って、たまたまこんな人がいました。こんな話を聞かせて頂きましたって言っても、それが普通じゃない人だったら、社会学的には代表性がない、というか調査の妥当性がない、という話になると思うんです。

 

それが、ま、実際に西山先生が、僕と藤井先生と一緒に台湾に行ったわけね。そして、恵美さんをはじめとした僕のインフォーマントと面談する機会をつくったの。

ただ、その前にね。二二八記念館とか、食堂とか、そういうところで日本語を喋る人にたくさん話しかけられたの。当時は、まだ、そういう方がたくさんいらしたからね。日本人というので、ワーッと囲まれて。それで、僕から聞いてた話が特別なものじゃない。みんな異口同音で同じようなことを喋ってるってことがわかってくるのね。決して例外的な語りじゃなくて、台湾の戦後史の下で紡がれた、歴史的に形作られた集合的な記憶だと言うことが。

 

その後、恵美さん達の生長の家だけでなく、色んな日系新宗教の関係者からお話を聞かせて頂いて。その経験を踏まえて、僕の博論執筆にゴーサインが出た、という経緯なわけ。

中村

西山先生が(寺田)先生と藤井先生と3人で台湾に行って、現地でいろいろ見聞きして、それが直接的なトリガーとなってゴーサインが出たと。実際に台湾を見たことが大きかったということですね。

 

それで、先生は博士論文の執筆に入っていくわけなんですけれど、当時、博士論文を執筆するかどうか。博士課程、在籍の年限が切れるタイミングで、もちろん生活しなければいけないというので、小学校その他で非常勤講師を務められていて。それも週24コマもやっていたと。そういうことをしながら、研究生活をされていたということで。

そのときの先生のご心情というか、ご苦労というか、博士論文を執筆しなければいけないけど、なかなかまとまった時間を確保することができない、そういうジレンマを抱えていた当時の様子というのはどういうものだったのでしょうか。

寺田

そうそう。とにかく博士課程に入ってすぐ都立の中学で非常勤講師を始めて。それは教員免許を持ってたから。

免許持っている人に3月とか年度の途中でも休職者が出た時とかに電話が来るわけ。どうか非常勤講師をやってくれませんか、と。空いてる時間で結構ですからお願いしますって。そういう時はとても腰が低くて、いい条件なの。週3日でいいですよって。

 

しかし、現場に行くと、手のひらを返されることが多くて。○曜日は行けないって伝えたはずなのに、そんなことは聞いていない、それじゃ困る、とかね。それが一回だけじゃないの。酷いな~っていうのはありました。

なんというか横暴というか、管理職は、こちらが身分は上って振る舞いなの。構造的に非正規教員はつくりだされているわけで、有能か無能かという指標ではないはずだし。とにかく就職氷河期だし、世代間不均衡で採用数はめちゃくちゃ少ないわけで。

 

加えて、時給分しか給料は支払ってないのに他の仕事も押しつけるの。行事とか。悪気がないというか、経験させてやってる、育ててやってるってつもりなんだろうけど、人には色んな事情があるわけで。ちょっとあり得ないというのはあった。

中学校でやっているときは、複数校を掛けもちしてたんだけど、大学の非常勤講師もやらせてもらってるから学校間の移動はタクシーなわけ。もちろん自腹。職場間の交通費なんか出ないからさ。その日に頂いたお給料の半分はタクシー代で消えるような感じなんだけど。困るのは、残って残業しろって指示ね。

 

高校・養護学校なんかも経験したけど、色々あって、中学校の教員メインから小学校メインの生活に移行するの。小学校は、時給は安くても拘束時間が長いから収入的にはいいの。たまたまかも知れないけど小学校はいい先生が多かったし、管理職も尊敬できる先生ばかりだった。小学校は朝が早いから、6時起きで学校に行って、放課後、週3回は大学院のゼミに通って、週末は研究会や学会。そんな感じの生活をしてましたね。30歳過ぎても風呂なしアパートだし。

 

だから、学会発表するときなんか、数日間はほぼ徹夜に近い状態。朝6時半前には出勤するから。帰宅は遅いし。それで資料を読んで、発表用のレジュメをつくってってなると、なかなか体力的にしんどかった。

ただ、就職氷河期だったし、政策的に大学院生が増産された状況だったし、僕みたいな境遇はよくある話というか、ありふれた話じゃないかな。

大学院に通っているのに中国語が全然上達しないとか、いろいろ言われたけど、実際、生活しながら研究発表をコンスタントに続けるだけで目一杯、精一杯という状況でしたね。僕の場合は。

 

ちょっと脱線が多いですね。申し訳ない。

中村

いえいえ、もう少し広げたい部分もたくさんあるんですけれど、ちょっと持ち時間が超過しちゃっているので。

多分、大場さんと長島さんもかなり心配しながら聞いていたと思うんですけれど、

大場・長島

いやいや、もっとお話聞きたいぐらいです。

中村

でもやっぱり先生の院生時代の話というのは、我々3人をはじめたとした後学が学ぶべきところが多くて、どういうふうな勉強をされてきたかとか、どういう姿勢で臨んでいたかとか、当時、誰々先生から影響受けたとか、どういう先輩がいらっしゃったとか、どういう学術的潮流があったのかっていうのは、やっぱり知っておかなければいけないことだと思ってます。

 

寺田先生が藤井、西山両先生から大きな影響を受けたように、私は寺田先生にとても大きな影響を受けた一人ですので、先生の院生時代のお話を伺って気が引き締まりました。俄然、もっと勉強したい欲が出てきました(笑)

 

5.【単著を刊行して:「実証的にものを考える」、最近の研究動向について】

大場

すみません、もう1つ聞きたいんですけれど、いいですか。

先生の博論について、刊行後にどういう反響があったとか、感想をもらったとかいうのはありますか。

先ほど話にあったように、なかなか西山先生が納得してくれなかったとか、他には、植民地を肯定するのか、みたいな感じで怒鳴られたこともあったと伺ったこともありますが。何かそういう反響があれば教えていただきたいです。

寺田

反響は特になかったです。

大場

えーっ!そんなことないと思いますけど(笑)。 怒鳴られたとか…

寺田

えと、怒鳴られたのは、博論を書く前の段階で、これも他大学のゼミに参加させて頂いた時の話。

宗教学や社会学の先生ではなくて、某公立大学のタイヘン有名な教育学の…

長島三四郎(以下、長島)

Y.O.先生ですか。

寺田

よく覚えてたね。

長島

チンピラって言われたって、おっしゃってました(笑)。

寺田

そうそう、よく覚えているね(笑)。なんで、自分と違う考え方をしてるってだけでチンピラ呼ばわりされなきゃいけないのか、全然わからなかったけど(笑)。

 

そうそう、先日、李登輝さんが亡くなったときの某新聞の社説でも、中華人民共和国が、将来的に台湾と一緒になっていくための「知恵」として編み出されたのが一国二制度だとか社説で書いてて。なんじゃこりゃ?と思ったよね。

台湾って、中華人民共和国の版図に入ったことって一瞬でもあった? 一国二制度を「詭弁」と書かずに「知恵」と書いちゃう感覚。侵略的イデオロギーを批判もせず、どういう歴史認識なんだろうって絶句しちゃいましたけど。

 

しかし、年配の方々の中には、蒋介石と毛沢東の国盗り合戦の延長線上で台湾問題を捉えられる方も未だにいらっしゃるみたいで。台湾2,300万人の民意とか人権とか何も考えていないように見えるけど。

長島

中国寄りですね~。

寺田

話を戻すけど、あの本を出して嬉しかった反応ももちろんありました。国際宗教研究所の奨励賞も頂けたし。

 

ただ、う~ん。口幅ったい言い方だけど、すでに修士論文を書いた時点で、近現代宗教研究批評の会とか、新宗教研究会とか、生活史研究会とかで発表させて頂いてたから。ちなみにその当時は、3つとも発表90分~120分、議論90分~120分だったから、一人で3~4時間の持ち時間みたいな感じだった。

そこで聞いてくださった先生方や先輩方からは、すでに認知して頂いてたの。もちろん、ご批判・ご叱正も含めて。

生活史研では中野卓先生にも聞いて頂けて、お葉書も頂いたし。弓山先生や井上(順孝)先生には新宗教研究会で聞いて頂いてた。孝本(貢)先生とか渡辺(雅子)先生とか。

 

それ以外で、つまり、『旧植民地における日系新宗教の受容』を公刊して初めて、僕の研究を知った、という先生から頂いたコメントについて覚えているのは、一人は島薗先生ですね。島薗先生は、台湾の部分というより、生長の家の記述の部分。本の2章で「新宗教とエスセントリズム」という論文に独立させた部分ね(『東洋学研究』45号、2008年)。あそこの部分を、よく調べたねって。どうやって資料集めたの?って。

やっぱり、島薗先生は生長の家の研究をやられてたから、ガードが堅い教団だってことをご存知なわけ。色々古本屋をまわって資料を集めたわけだけど、その部分をわかって頂けたのは嬉しかった。島薗先生は覚えてられないかもしれないけど(笑)。

 

あと、嬉しかったのは、對馬(路人)先生。僕は、對馬先生の璽宇論文は、新宗教研究の蓄積の中でも屈指の成果だと思ってるの。對馬先生は、凄い論文を色々書かれてるけど、それらを単著としてまとめられてないでしょ。その對馬先生がね、僕もこんな本を書きたいって思ったよ、みたいなことを飲み会で言ってくださって。これは、感激しましたね。

ま、對馬先生はすごくお優しい先生だから、みんなを褒めるんだけれど。やっぱり、そういうふうに言ってもらえると嬉しかった。對馬先生も覚えてられないと思うけど(笑)。

大場

なるほど~ それは嬉しいですね。

寺田

あとはやっぱり、星野(英紀)先生ですよね。大正大学にお世話になる前に呼んで頂いて、君から森岡流、西山流の調査を若い人たちに伝えてほしいって言われた時には感激しましたね。震えるというか。ま、これも星野先生が覚えてられるか、わからないですが(笑)。

中村

それはとても感激しますね。私も寺田先生から調査の仕方学に関して多くのことを学びました。

寺田

あとは、あまり嬉しくはなかったけど、ありがたいと思ったのは鳥越皓之先生。

これ、話したことあったと思うけど、ハーベスト社の小林(達也)さんとか、同じタイミングで博論を公刊した、今、学芸大の橋村(修)氏とかと一緒に新宿のどん底で飲み会をしたとき、来て下さって。色々コメントを頂いたの。

その時、橋村クンのは狙って打ったヒットだけど、寺田クンのは、たまたま振ったらバットに当たったポテンヒットだ!みたいなご批判をされて(笑)。しかし、丁寧に読んで下さって、とてもありがたいと思いました。

 

この他にも謹呈させて頂いた先生方からは、あたたかい励ましのお言葉を頂きましたね。田島(忠篤)先生なんか、「あとがき」を読んで、境遇に同情して下さったのか図書券贈って下さって…。ありがたいっていうか、感激しましたね。こういうことを喋っていたら切りがないんですが。

大場

博論の著作もそうですが、『近現代日本の宗教変動――実証的宗教社会学の視座から――』(ハーベスト社、2016年)でも、やっぱり実証的ということを重視されるというか、強調されていて。

やはり我々もその実証研究、実証的に研究するということを常にご指導いただき、意識していることなんですけど。

 

先生の中で、実証研究という立場について、どのような点にこだわって研究されているのか、というのを改めてお聞きしたいです。博士論文の経験からでも、この論集を踏まえてのお話でも。

寺田

う~ん。実証的という言葉じゃなくてもいいとは思うんですよ。「科学的」でも「手堅く」でも「分厚く」でもいいし、実は何でも言葉はいいと思っていて、「実証的」という言葉が一番ベストかどうかはわからない。

ただ、西山先生が「実証的」とおっしゃってたんで、僕は受け売りで実証的という言葉を使ってます。

 

実証という言葉で言わんとしているのは、ちゃんと裏をとってるか、ちゃんと証拠を集めてるか、何かものを言うためには対照するものが必要だから常に比較検討する対象が用意されているか、とか、主張の根拠になるデータをきちんと示してものを言っているか、とか、そういうふうな一連の手続き論みたいなものを実証的という言葉でカバーできると思っていて、使ってるの。

 

誰かの専売特許じゃなくて、研究者として当たり前のことですよね。

だから、A.コントみたいなイデオロギーとしての実証主義じゃなくて。僕の言っている実証というのは、そういう意味では、実証主義じゃなくて、実証的思惟、実証的にものを考えるという、そういうレベルの意味であって、実証的な手続きを踏む、という手続き論ですね。

 

それは大場さんの契約講や新生活運動の研究もそうだし、中村君のハワイ浄土宗の研究もそうだし、長島君の沖縄の龍泉研究ももちろんそうだし、やっぱりお作法というか、手続き論というか、そういうものについては、3人はわかってくれていると思っていますけど。

大場

やっぱり先ほどの藤井先生と西山先生の違いじゃないですけど、タイプみたいなものがあると思うんですよ。

私の場合、もともと他大学の出身で、モグリ学生から大正大学の修士課程に入って、本当にありがたかったというか。

宗教学の基礎的な勉強はもちろん、研究の仕方や論文を書くことについて、右も左も分かっていない状態だったので。

一番影響を受けたことの一つが、作法を一からしっかり教えてもらっているということです。それが、私にとって本当に大きくて。

寺田

ビールの注ぎ方とか(笑)

大場

そうですね。大人数での飲み会の最初は、とりあえずビールを頼むとか(笑)

寺田

長島君はその辺がちょっと(笑)

長島

ちょっと、その辺はあまり…(笑)。何も言えない(笑)

大場

ビールの件は冗談ですが(笑)、私は研究の手法というか作法というか、そういうご指導をいただいて、本当にありがたいと思っている一人です。

寺田

お作法がわかっていると思われてると、学会で声もかけてもらえるし。

そういうのがわかってないと思われたら、やっぱり相手にされないってのはあるように感じるよね。

大場

学会とかいろいろな研究会へ行くと、寺田先生の指導学生というだけで認知してもらえるというか。寺田ブランドじゃないですけれど、

中村

確かにそれはありますよね。

寺田

そんなのあるの?

大場

ありますよね、本当に。

中村

他大学の院生さんからよく言われます。

大場

院生からもそうですけど、先生方からもやっぱり。

寺田

いや(笑)、もちあげ過ぎでしょ。「恩返し」?

中村

いやいやいや。テキトーな研究はしていないよね、というふうに言われます。

あと、テキトーな研究はできないよね、とか言われますね、他大学の院生や先生から。

大場

さて、先生は、他にも本当にたくさん論文を書かれてて。

宗教だけでなく、屋久島、学級経営、ヒッピー、非正規雇用問題など、多岐にわたって。そういうのに全部触れられないのは残念なんですけれども、ちょっと最近の宗教学界の研究動向について、どう見ているのか。せっかくの機会なので、ちょっとお聞きしたくて。

 

寺田先生もライフヒストリーや魚供養、教導システム、ナショナリズム、「日本会議と創価学会」とかもそうですし、あと姉崎嘲風と高山樗牛や、国体明徴運動と絡めた藤田(大誠)先生の論集のご議論とか、色々幅広いテーマで研究をなされてるわけですが。

その先生から見て、最近の近代仏教とか国家神道研究とか、あとその他、近年の研究のトレンドみたいなものについて、どのように感じてらっしゃるか、お伺いしてもいいですか。

寺田

う~ん。やっぱり研究ってトレンドみたいなものがあって、どこかに乗っていかなきゃいけないとは思うんですよね。

今、言ってくれた他にも、(星野)壮さんとか東洋の高橋(典史)さんとかの移民と宗教の研究もあるし、山中(弘)先生や岡本(亮輔)さんらの巡礼ツーリズム研究も精力的だし。村上(興匡)先生や大場さんも関わってる葬送墓制研究、森謙二先生とか(鈴木)岩弓先生とか山田(慎也)先生とか。本がどんどん出てるよね。

成果を出してると言えば、北大の櫻井(義秀)先生は凄まじい生産量ですよね。人口減少社会は最たるものだと思ってるけど、それぞれ、やっぱりやっていかなきゃいけない重要な研究領域だと思います。

 

それから、今、一番大きな勢力になっているのは近代仏教ですよね。法蔵館から陸続と本が出てて。大谷さんはじめ、岡田(正彦)先生、碧海(寿広)さん、東北大や龍大グループ、林(淳)先生は何でもやられるからあれだけど、すごく盛りあがってますよね。

 

それから、僕もちょっと関わらせて頂いてるのは、藤田(大誠)氏、菅(浩二)さん、藤本(頼生)氏、齊藤(智朗)さんをはじめとした國學院大学の猛者と畔上(直樹)さんや昆野(伸幸)さん、平山(昇)氏等、歴史学のいくつかの分野の研究者がいい緊張関係でお仕事をされてる国家神道研究。やはり刺激を受けます。

 

星野先生や弓山先生達と進めた震災研究もそうですが、僕は、現代的なことにももちろん関心はあるの。ただ最近はちょっと、歴史に絡めることの方に興味があるかな。やっぱり、そういう意味では国家神道の議論から影響を受けてますね。

 

近代仏教にも、もちろん関心はあります。ただ、やっぱり僕は、元の出自が社会学というか新宗教研究だから。近代仏教は思想史というか、知識人の仏教論とか、仏教者の哲学的思索みたいなテーマが多い印象をもっていて。ま、僕も樗牛と姉崎の研究はやってておもしろかったんだけど。ま、近代仏教の研究は、勉強になるから読むのはおもしろい。けど、自分の本地じゃないな、っていう感じです。

 

宗教社会学的な発想から言うと、社会的な影響力、ウェーバーがいう共鳴盤の存在。時代的にどういう意義があったのか、とか、社会のどの層にどのような影響を与えたのか、とか、そういうのね。だから、清沢(満之)とか西田(幾多郎)より、戸田城聖(創価学会)とか庭野日敬(立正佼成会)とかの研究を僕なんかは取り組むべきなのかな、とか思ってます。やっぱり庶民というか大衆を掴まえる社会運動に興味がありますね。

そういう意味で、谷口雅春なんかも、やっぱり思想的な水準からいったら、上杉慎吉とか北一輝とか同時代の知識人と比べたら幼稚なレベルだったんだろうけど、やっぱり影響力というか、大衆への波及力という点では無視できないと思うし、そういう人物を注視したいと思ってる。

大場

谷口の言説とか、思想とかを見ていく時に、どれほどすぐれた思想を提唱したのか、というよりは、谷口の発したメッセージの何が、どのように大衆の心を掴んだのか、と。そういう部分に関心があられるわけですね。

しかも今は、歴史研究の方に関心が向いているというのは、ちょっと意外でした。

寺田
そうですか?
大場

こういう形できちんとお聞きするのは初めてだったので。必ずしも歴史研究じゃないかも知れませんが、戦後史を下敷きにした論考。

たとえば、青木理さんが「新宗教とエスノセントリズム」を引用されてたり、「日本会議と創価学会」についても結構、読まれてますよね。

ああいう研究については…

寺田

青木さんが読んでくれたのはありがたい。たまたま日本会議が注目されて。

やっぱり青木さんと菅野莞さんの本が売れて、注目されることになって。そういう中で調べようと思ったら、ネットで引っかかる論文があった、ということなんだと思うよね。参考にしてもらったのは光栄ですけれど。塚田(穂高)君の単著の影響もあったんじゃないのかな。

 

研究というのは、やっぱり今の世の中で注目が集まってることを追いかけるのではなく、やはり基礎研究に基軸が置かれるべきだと思ってて。研究者自身の純粋な知的好奇心と良心を羅針盤にしたね。

エスノセントリズム論文なんかは、たまたま陽が当たった作品だと考えてるけど、書いた当時は、なんでああいうことをあそこまで調べる必要があるの?って反応もあったけど(笑)。ま、世間的にはどうでもいいことを徹底して調べるのが研究者だとは思うよね。

大場

博士論文の内容から、現在の研究状況までお話が聞けて、本当におもしろかったし、勉強になりました。

すみません、私がたくさん喋ってしまいました。長島さんが、今か今かと待っていると思うので…

 

6.【教育者として: 興味関心の芽を見逃さない、研究と勉強】

寺田

長島君、ずいぶん長く黙んまりだったけど、半分くらい寝てたんじゃない?

長島

いや、寝てないです(笑)。起きてます(笑)。

時間は限られているんですが、今から、教育者といいますか、ここにいる3人もそうですけれど、みんな寺田先生にいろいろ教えていただいて、学んできました。今までは、どちらかというと寺田先生が、研鑽を積んで、色々なものに出会って、という話の流れだったんですが、今度は寺田先生がそれをどういうふうに教育や指導の中に活かしているか、という話を聞かせて頂ければと思います。

 

寺田先生は、2011年に大正大学に着任されまして、本当に教育熱心というか、教育・研究指導に熱心に、学生に親身にあたってこられまして、授業もとてもおもしろいですし。学生を石垣島や台湾に調査に連れて行かれてます。

また、自分は寺田ゼミの1期生として学ばせて頂いたんですけど、それ以降もずっとお世話になっています。

寺田
いやいや十分にお世話できてなくて恐縮です。
長島

いや、はい。いや、いいえ(笑)。それでですね(笑)。

やはり寺田先生の授業とかが、すごくおもしろくて、それで研究に興味をもったり、大学院への進学を考えたりって、そういう子も多分多いと思うんです。新入生から大学院生まで慕われていて。それで、自分なんかもそうなんですけど、印象に残っていることがいくつかあります。それを手掛かりに聞いていきたいな、と思っています。

 

自分は、ゼミの時もよく言われたんですけれども、寺田先生が難しいことを難しいまま話すのは、実は理解していないんだ、と。難しいことを知って、それをちゃんと自分の言葉で、相手に伝わるように、咀嚼と言いますか、かみ砕いて、わかりやすく説明することが大事なんだ、と。ただ、本当はそれだけでもダメで、わかりやすく言えたから、それでいいわけではなくて。それが例えば学術的にはどのような意味があるのか、とか、もしくは初めて聞いた人でも興味を持ってもらえるように、どのような話題とつなげて説明するか、とか。

そういう工夫がとても大切なんだ、ということを教えて頂きました。自分がまだ学部生の時ですが、おもしろく喋れないと本当は理解したことにはなってないんだよ、おっしゃってられたのが印象に残っています。

 

そういうふうに、寺田先生は、ゼミとか学生に指導するとき、大事にされているポイントみたいなのがあると思うんですけれども。ちょっとそういうのを教えていただければな、と思います。

寺田

すべて言われちゃった感じなんですけど…(笑)。
ま、今のは、やはり大事なポイントだと思ってます。井上ひさしさんだったかな。ちょっと忘れちゃったけど、僕も当然これは受け売りなんです。難しいことをわかりやすく、わかりやすいことをおもしろく、と。そういうのがどっかに書いてて、大事だな、と思ったの。
やはりそれは小学校とか中学校とかで教えていた経験があって。やっぱり難しいことを難しく言ったって子どもには伝わらないわけ、そもそもわからないわけ。

 

その難しいことをどういうふうにわかりやすく伝えるか。小学生だってニュースとか何かで、世の中のことや歴史、社会に興味を持つことがあるわけです。先生○○って何?って訊かれたら、それは△△だよ、って簡潔・簡単に答えなければいけないわけ。

だけど、簡潔に応答するだけじゃなくて、それが彼らの興味や関心の延長上にどんな意味があるのか、そういうことをどうして知る必要があるのか、なぜニュースになっているのか、ということを、相手のレベルにあわせて、子どもの世界観の中に体系化づけることを意識して情報提供しなきゃいけないの。

 

そして、一番大切なことは、そういう興味関心を抱いたことを褒めること。認めること。これはやはり大学生でも絶対そうなわけ。難しいことを難しく喋ったって、それは壊れたラジオというか、単なる自己満足でしょ。

今まで、色んな事に気がつかなかった、興味関心を抱いてこなかった学生ってたくさんいるわけ。偏差値に関係なく。ゼミでも飲み会でも、色んな話題やテーマを話すこと、振ってくれることを拾うこと、認めること。これが大事だと思ってる。

 

やはり興味関心を持つことが、学問とか研究の一番の出発点だし。そういう何かにひっかかったタイミングを見逃さずに引っ張り上げること。興味関心の芽が出た時に、それを流したり、摘んだりするんじゃなくて。で、そういうものが出てきたときに、どれだけこっちの側が、それをぐっと引っ張り上げてあげられるか、そういう力があるかってことが問われてる。

そういう気づきを敏感に察知して、逃さない、それをなるべく大きく引っ張り上げる。それってすっごく大事なことなんだよって、背中を押す形で引っ張りあげることがポイントだと思ってる。

 

とにかく質問や話題に出そうなことについて、普段から自分なりの情報収集をしておいて、自分なりにこういうふうに考えている、ということを常に頭でまとめておく、ということはやっぱりやってた方がいいと思うよね。

長島

ありがとうございます。勉強になります。

今回、藤井健志先生の記念文集に寄稿された寺田先生の文章を読ませて頂いて気づいたのは、寺田先生が藤井先生に感じたことを、今度は、寺田先生が自分の学生に実践されてるんだな、ということです。

寺田

う~ん。それはあると思いますよ。どれだけできてるか、ということは置いておいて。

 

たとえばね、う~ん、そうだな。ウイグル自治区に旅行したとき、僕がすごく感激したのは、モスクに行ったときなの。

ほら、僕は、事前に全然勉強しないでウイグル自治区に行ったでしょ。イスラームに関する知識もほぼゼロに近いわけですよ。

で、礼拝の時間にモスクに行くと、どんどん人が集まってきて。そこでね、何人かの人は入り口に並んで、モスクにやってくる人を待っているわけ。なんなんだ?この人達は?とか思ってると、礼拝に来た人たちが、彼らにパンとか色々ポンポン渡すわけ。そう。ザカート。喜捨ね。

 

これがさ、チャリティと発想が全然ちがうわけ。やっぱりね。その後、訪れたバンコクやバラナシ、ニューヨークやロンドン、バルセロナやホノルルなんかで見た物乞いとかと違うわけ。ウルムチやカシュガルで見たザカートの光景は、イスタンブールやカイロでも共通してるのね。

チャリティをする側は施してあげる、受ける側はありがとうございます、って関係に見えるんだけど、ザカートは善行の機会を私の方がつくってあげてる。いわば、もらってあげるというふうに映るわけ。困った人を助けてあげる、という感じではなくて、もらう側に卑屈さはまったく感じられないの。

そこに僕はびっくりしちゃって。すごくよくできたセーフティーネットというか、文化装置だって印象を受けて。物流レベルでも集団心理レベルでもうまくできているな、と。

 

それを見た後に、宿に帰って、藤井先生に思ったことを喋ると、寺田クンの視点ってのは、宗教を社会的機能として理解するマリノフスキーの発想に近いね、とかって感じで解説が来るわけですよ。

当時は、B.マリノフスキーとか名前しか知らなかったし。そこで、じゃあ日本に帰ったら読まなきゃってなるわけ。実際に『西太平洋の遠洋航海者』を読んだのは大学院に入ってからだけど、めちゃくちゃおもしろいわけ。

 

そういう感じで、自分が感じたこと、疑問に思ったこと、思いついたこととか、それに対して、その発想は何に近いね、とか、そういう興味関心なら○○を読むといいよ、とか、それと関連した現象にはこういうのがあるんだよ、みたいな教示をもらえると、自分の思ったこと、感じたことが、アカデミックな世界につながっている、学問的な関心に接続されることがわかって視野が広がるわけ。そういうのは、自信にもなるし。やはり僕にとっては、そういう経験は大きかったよね。

長島

なるほど。やはり寺田先生が藤井先生にそういうふうに教えていただいて。自分たちは寺田先生にそういうふうに教えていただいた、という思いが3名ともあると思います。先生も自分たちと似たような経験をされたんだな、と。

 

あと、これももう一つ、特に印象に残っていること。3人みんな同じ思いだと思うんですが、先ほども少しお話出たと思うんですけれども、〈研究と勉強は違う〉ということを何回も、ゼミとかで繰り返し教えていただいて。

 

何かおもしろいと言っても、事例とかを知らずに本とかを読んで、すごく見方が変わっておもしろいというのと、実際に事例とかをきちんと理解した上でおもしろいと感じるのは違うという話ですね。やはりそういうことを自分らは、特にゼミの指導ですね。授業というよりは、ゼミの指導で、すごく強く印象に残っている言葉としてあります。

寺田

長島君は、僕が言わなきゃいけないことを全部きれいにまとめて喋っちゃうところがありますね(笑)。

その通り。いや、長島君がおっしゃるとおりです(笑)。

長島

すみません(笑)

寺田

ま、ね(笑)。勉強と研究は違うよね。というか、違うと僕は思ってる。

勉強できる人間はたくさんいるけれどね。勉強できるからといって研究ができるかというと、そうじゃないのね。

逆に、研究できるから勉強ができるかというと、そうでもないの。使う筋肉もちがうし、やっぱり得手不得手があるわけです。

 

やはり研究できる人というのは、あまりものを知りすぎていてもよくなくて。もちろん、いい研究をするためには、ある程度ものを知ってなきゃいけないわけだけど。けど、何でもかんでも知っていると、というか、実際のところは、何でもかんでも自分は知っていると思いこんじゃってるってことなんだけど、そういう人はダメなわけ。疑問を感じない。自分で実際に調べてみなきゃわからない、とは思わないのね。

ちゃちゃっとググって、わかった気になれる人とか、教科書に書いてあることを鵜呑みにする人、疑問を感じない人は、研究にはあまり向いていないと思う。ホント?とか、何で?とか、実際に行ってみなきゃ、とか思えない人は、研究者には向いていないと思う。

何で?何で?と思えるテーマが多ければ多いほど、たくさん論文が書けるわけ。

ただね、社会生活のすべてに何で?何で?ってなってたら、ちょっとヤバいというか、ウザいけどね(笑)。

 

例えば、僕は高校でも教えていたけど、高校の社会科の先生って知識が豊富な人が多いんです。

本当によくものを知ってて、本を読むのが好きな先生が多いの。新しいことにも敏感で。僕が出会った先生方がいいお仕事ができている限り、日本国民の民度は保たれますね(笑)。ホントに。高校の社会科の先生方は、貪欲に知識を仕入れて、子どもたちにわかりやすく伝えることに関しては、ものすごくプロフェッショナルだと思います。もちろん例外の人もいるとは思いますが、ほとんどの現場の先生は非常に有能な方々だと思います。

 

ただね、受験があるからね。外山滋比古さんがグライダー人間(先生と教科書にひっぱられて勉強する人間)と飛行機人間(自力飛翔する人間)って言ってるけど、受験勉強でいい点数が取れるってのはグライダー人間としての才能があるってことだよね。

それはそれで大事だし、そういう能力を発揮する職業はもちろんたくさんあるわけで。

ただね、それを一元的に「優秀」な人間って評価してると日本の未来はない、って感じる。飛行機人間、自分でテーマを見つけ、自分なりに考えて、結果を求めて動く人間ってのは、やっぱり大学教育でしか十分に展開できない学びで陶冶されていくものだと思ってるけど。

 

僕は、小・中・高・大・短大・養護学校の現場を経験してるでしょ。現場経験のない人たちが制度設計やってるから、トンチンカンな教育改革に終始してるように映るんだよね。暴論かも知れないけど。

たとえば、今、高校生がやってる総合型、探究型だっけ? 調べ学習。やはり中途半端というか、片手間で自家発電の触りをやってるだけに映るんだよね。一日だけ大学の先生にインタビューに来て、それをレポートにまとめて、果たして意味があるんだろうか?って素朴に感じちゃう。

インタビュー調査って、事前の徹底した文献調査が必要なわけだけど、そういう文献調査の時間、図書館をまわる時間も含めて、論文を読み込むとか、現行の高校のカリキュラムで遂行することは現実的にとても難しいと思うんだよね。ネットで検索するだけじゃ、当然、限界があるわけで。ま、この話は余談だから止めますが。

 

ま、ね。研究ってのは自家発電なの。自分で、何か今まで研究の世界で、研究史上で明らかになっていないこと、こういうことは論証されていない、明らかになっていない、そういうことを特定して、それを究明する。そんでね、研究者ってのは、全般というか全方位的に物事を知っている必要は必ずしもないの。自分の専門分野、そこに関してはトコトンこだわって。そこについては世界で自分が一番知っている、という領域を定めてね。その領域に関しては読んでいないものは1つもない、と。そういう領域をつくって。

 

その領域に関して、こういうところはまだ審らかになっていない、ということを特定して、それを調べて、そして、こういう成果が出たから、既存の研究史、あるいは通説とか定説というのは、こういうふうに書き改められる必要がありますね、ということを提示するのが研究者の仕事。

やっていくためには常に新しい研究とか、未発掘の一次資料とか、データを徹底的に調べる作業が必要なわけ。ま、だから研究者がやらなければいけないことと、いわゆる世間一般で言う勉強とは違うんですよね。

 

勉強は、平たく言えば調べものであって、すでに他の人が調べたことを頭に入れること。研究は、他の人たちが調べたことの中に粗や盲点を探しだし、それを検討・検証する。もちろん勉強もしなければいけないけれど、勉強をやってれば研究ができるようになるかというと、それはちがう。研究ができるようになるためには独自の訓練、粗や盲点を探すコツの習得や資料を扱う訓練が必要になる。

長島

今のお話で、インタビューの準備の話があったと思うんですけれども。自分たちも、フィールドワーク入る前に、これもゼミの指導だと思うんですけど、やはり準備をしなければいけないというのを何回も言われたと思います。

例えば、自分も沖縄行く前に、例えば、

寺田

イベントの開催日をちゃんと調べて行くとか(笑)。

長島

その話は置いておいて(笑)。

先行研究をちゃんと読むとか、インタビューする前に、文献上で調べられることは徹底して調べ、そして何を聞くのかちゃんと決めていくとか、そういうことです。

先ほどの中村さんの話ともつながるんですが、やはりそれは西山先生のゼミで寺田先生が経験されてきたことというか、学んできたものが繋がっているのかな、と思っています。そういう思いというか、何かそういうのはあるんでしょうか。

寺田

特にありません(笑)。うそうそ(笑)。

いや、当初、僕はあまり何も考えないで、台湾の調査を始めて、詳しい人とか、よく知っている人を雪だるま式に追いかけていったわけ。最初の大学院の紀要に書いた論文は、そのデータをまとめたものだけど、今読み返すと、色々粗があるわけです。それは、文献にちゃんと当たれていないということなんですよね。

 

それに対して、文献に書いていることについては、全て網羅するって方針で書いたのが博士論文。文献をあさるのってコツがわかれば、なんてことはないんですが、コツがわかるまでは、何をあさっていいのか、どういう視点で資料を見ればいいのか、どういうふうに探索していけばいいのか、よくわかんないからね。

 

だから、中村君がやっているハワイの研究に関連させると、天照皇大神宮教を論じた西山先生と藤井先生の共著論文は、やはりすごく参考になって(「ハワイ日系人社会における天照皇大神宮教の伝播と展開」柳川啓一・森岡清美編『ハワイ日系人社会と日本宗教』東京大学宗教学研究室、1981年)。あの論文はすばらしい成果だと思うの。あれはさ、ほとんど日本で徹底的に調べていって、そこでわからないことを現地の人たちにインタビューするってやり方を取ってるよね。

だから、こういうやり方なんだなって、これを読んで学んだ。森岡清美先生の島村論文とかもそうだけど(「日本農村における基督教の受容」『民族学研究』17-2、1953年)。とにかく文献でどれだけ押さえることができるのか、その重要性を勉強させてもらいましたよね。

長島

あと、大学院のゼミだと、寺田先生は、ゼミの〈強み〉みたいなことをおっしゃいます。

例えば、自分が修士課程にいたときとかは、同世代に何人も人がいたり、もしくは年齢が離れた先輩がいたり、他大学からモグリで来られてる方も色々いらっしゃって。それで水曜と木曜に指導でみんな集まって、発表しあって。それ以外の時間も研究室で研鑽しあって。

そういう学生同士というか、院生同士で研鑽するというか、そういうのが重要なんだ、ということを寺田先生がおっしゃられてて。ゼミの強みというか、一緒に学ぶ仲間がいることの強みみたいなことも、多分、寺田先生のご指導の中にあると思うんですけれども。その辺についても、少し教えていただければなと思います。

寺田

たくさんいなくてもいいんですよ。1人より2人、2人より3人という話であって。

やはり1人だけで勉強してると独りよがりになりがちだし。やはり仲間がいるということはすごい重要だと思う。

レイブとウェンガーの何とかって本の「実践共同体」って言葉があるでしょう。CoP、Community of Practice。

長島君、芳賀(学)先生と菊池(裕生)さんの真如苑の本は読んだでしょう。

長島

はい。『仏のまなざし、読みかえられる自己』(ハーベスト社、2006年)。

寺田

うん。あれに実践共同体という概念が使われていたのを覚えてませんか。
…覚えていない(笑)。

あれね、レイブ&ウェンガーっていう人の人類学と教育学を混ぜたような内容の本なんだけれど、教育学なんかでよく言及されるの。どういう手法がどういう教育効果を発揮するか、というのは、教授内容によって異なるわけ。

 

研究ってのは、日本語で言うと徒弟制で学ぶものだったわけ。それは、徒弟の集団があって、その周辺部では新入りが仲間同士で切磋をして色んな事を学んでね。その中心側には、より多くの経験を積んだ先輩の徒弟がいて、それを見ながら新入りは仕事を覚えるの。中心部には親方がいてね。先輩達も親方のマネする中で仕事の仕方を身につける。とにかく周辺は中心のマネをする、そして中心に近づく。全体が内側に向かって経験を重ねることで仕事のやり方が伝達され、一人前になっていく。そういうのが実践共同体。

 

これは、知識伝達の合理的手法である教室の一斉授業とは異なるやり方の教育法なわけ。やっぱり研究ってのは、知識を単に伝達するだけじゃないわけじゃない。自分で、どういうところに当りをつけて情報を取ってきて、その情報をどういうふうに解釈して。あるいは、どういうトレンドに目を付けてテーマを設定するか。どういう視点から分析を加えるか、とか。そういうのは、自分の頭で考えなきゃいけない。先生から言われたことを唯々諾々とやってちゃダメ。それだとエピゴーネンというか、二番煎じというか、今風に言うと劣化コピーにしかならないわけ。

 

つまり、グライダー人間の大量生産には、教室の一斉授業が効率的だけど、飛行機人間の養成には、それにふさわしい教授法や人間集団が必要だってことね。やっぱり、自分の頭で考える訓練ってのは、大教室の一斉授業とか、画一的にやる教育ではうまくできないわけ。対機説法というか臨機応変な個別対応ができないでしょ。考える主体を作る教育というのは、やっぱり持続的に実践共同体でやるのが一番有効だと思う。

そういう意味で、ゼミとか、研究仲間というのはすごく重要なわけ。もちろん、学会も広い意味で実践共同体として機能していなければレゾンデートルはないよね。

 

一方で、中心の軸みたいなものがないところで、いろいろな実践共同体に参加すると、いろんな流儀や色んな作法に触れただけで、何にも身に付かない、どこの中心にも参入していくことができていないってこともありうる。だから、その辺は気を付けなければいけない。

長島

ありがとうございます。

このインタビューは大学院を目指す人たちに読んでもらいたいということで、今おっしゃっていただいた内容は、どれも、大学院を目指したり、もしくは研究に興味を持っている人のためになる、とても重要なお話だったと思います。

寺田

本当?(笑)

長島

本当ですよ(笑)。急にそんなこと言わないでください(笑)。すみません、本当に時間超過させるつもりはなかったんですけれども。

寺田

そろそろ乾杯ですか?

 

7.【最後に: 大学院進学を目指す人へのメッセージ

長島

このインタビューは、大学院を目指している方々に読んでいただきたいと思っていますので、是非、寺田先生に締めじゃないですけれども、大学院を進学しようと思っている人たちに向けて、例えば、研究者を目指す上での心得とか、もしくは学ぶときに大切にすべき姿勢とか、もしくは何かこういうところは、大学院に入ると決めたら考えておかなければいけないとか、何かそういうものがあれば、教えていただければと思います。

寺田

そうですね。とにかく研究っておもしろいと僕は思っていて。そのおもしろさに気づいた人は、是非、大学院に進んでほしいと思いますよね。

 

もちろん、僕みたいに、もうちょっと勉強したいとか、これでいいんだろうか、みたいな感覚の人もいると思うし。もっともっと卒論でやったことを深めていきたい、とか、いろいろあると思うんですけど。大学の4年間だけではなく、もっと学んでみたい、研究を進めてみたい、という気持ちになっている人がいたら進学を考えてもらったら嬉しいし、その中で宗教学とか宗教社会学とかに興味があったら、大正大学の大学院で学んでくれたらすごく嬉しいですよね。

 

大正大学の大学院は、近代以降というか幕末以降の日本の宗教に関する実証的な研究をやっている院生がコンスタントにいて、そういう実践共同体の中で、いろいろな研究の訓練ができるってのは恵まれてると思うんです。あちこちに調査旅行に行ったりとか、学内学会も主催して、研究室で雑誌も出しててね。日本宗教学会でも一大勢力だし、とにかく伝統があるからね。そういう色んな交流や活躍、発表の機会に恵まれてるのは、とても凄いことだよね。

 

日本は、ほら。ちょっと前までは教育大国みたいな感じだったけれど、今じゃすっかり教育後進国になっちゃって。先進国の中で大学院進学率が、全然伸びなくて。加えて、文系は要らないみたいな、そういう極端な議論をする方までいらっしゃって。ちょっと足がすくむ、というか、大学院に行くことを躊躇するような空気もあるわけだけど。

 

ただ、やはり不確定性が非常に高い時代ですから、やはり自分の頭で考える訓練、自分で調べて自分で動く、自家発電・自己飛翔の訓練って、遠回りに見えるかもしれないけど、確実に自分の財産・資質として残ると思うんですよね。

 

結局、人生って、自分がいい人生だったな、よかったな、って思った人の勝ちであって。人生100年時代とか言われているけど、やはり研究をするというのは、人生を豊かにする上で大きく役に立つのではないかと僕は思ってます。

 

あと、そうですね。大正大学の強みは、仏教の大学だということが大きいと思います。

宗教の現場の事情について、生々しい情報を聞きながら研究を進めることができるのは、ものすごくアドヴァンテージがありますね。そういう意味では、宗教学を研究する上で、他大学にはない強みがあると感じてます。

大正大学の宗教学研究室は、日本の宗教学の歴史と同じ長さの伝統を誇ります。スタッフにもOBにもめぐまれてますし、そういうところはアピールできるんじゃないですかね。

長島

ありがとうございました。やっぱり自分も特に学部生のときに、寺田先生が他の卒業生とかも含めた場でおっしゃっていたことで。多分他の世代の子も聞いていると思うんですけど、例えば、大学で真剣に卒論を書くとか。就活とかもそうだとは思うんです。

真剣にやって、それは無駄にならないから。だから卒論とかって1回しか書く機会がないから真剣にやろうということをおっしゃっていたのを、今の先生のお話で思い出しました。

そういう真剣に何かに取り組めるというのは、大学院に上がる良さの一つとして感じました。ありがとうございます。

大場
では、本日はお忙しい中、長時間にわたりたくさんの質問に答えてくださり、本当にありがとうございました。
中村・長島

ありがとうございました。

寺田

いえいえ、こちらこそ脱線ばかりで長引かせて恐縮でした。

 

 

教員紹介: 村上 興匡 先生   ➢教員プロフィールはこちら

 

1.【宗教学を専攻した背景】

聞き手
村上先生が宗教学を志された背景を教えていただけますでしょうか。
村上
もともと大学に入るまでは理系志望でずっと生命科学をやりたくて、大学も理系に入りました。だけど、お寺の生まれということもあり、将来はお寺を継がなければならなかった。
ただ、お寺が小さいということもあり、うちの父は教員をやりながらお寺をやっていました。僕も、教員をやりながらお寺の仕事をするんだろうなと思っていました。そこで、大学の先生になろうと思い、どうせ大学教員をやるならお寺の生活に役に立つような研究をしたいと思い宗教学に進みました。
聞き手
先生が育った環境とご自身の研究が密接にリンクしながら将来像を描いていたということですか?
村上
将来像まではいかないけど、どうせ農家をやるんだったら農学部に行こうかということと同じ感じで宗教学に進みましたね。
聞き手
大学教員であることと、お父様のように小中高の学校教員であることはやや異なる面があるように思います。つまり、大学教員は教育も重要ですが、同様に研究もしなければならないと思います。研究生活についてどのようにお考えでしょうか。
村上
先ほど生命科学に進みたかったと言いましたが、理系だと比較的研究者になるということは珍しくありませんでした。今と違って僕らの頃は景気が良くて、普通の人は就職していましたし、ある一定の成績を取っていれば大学に残るということが普通でした。

実際、僕の同級生も5,6人大学に残って先生をやっています。ただ、理系から文系に行ってみて感じたのは、文系は先生になることは難しいなということでした。
東京大学の宗教学研究室では、入る時に通過儀礼みたいのがあって、かならず大学院を受けるときに「大学院に来ても食えないぞ」と言われました。ここで引き合いに出される話が、岸本英夫先生が「鰹節にかじりついてもやります」と言ったら「なぜ石にかじりついてでもと言わん、鰹節なんて食えるわけがないだろう」と返されたとかそうでないとかというものです。
経済面については、僕は逆にお寺をやらなければならないということもあったので、大丈夫でした。お寺が群馬の高崎ということで、奨学金はもらっていたんだけど、その他に土日と夏休みなんかは、高崎に帰ってお寺の手伝いをしていました。そうするってぇと、比較的後ろめたい気持ちにならず親から援助をいただいてました。
 

2.【専門分野の設定へ】

聞き手
そのような背景を持たれる中で、先生のこれまでのご研究であられる「近代化」「葬儀」「伝統儀礼」に焦点を当てていくという流れがどのように作られていったのでしょうか?
村上
寺に生まれると周囲から「人が死ぬのを待っている」とからかわれました。周りの人は、僧侶という職業をからかいの対象として思っている節があるような気がします。一方で、僧侶がいなくては困るという感じも持っている。
地方だと、警官と教師とお寺の息子というのは地域社会からかなりチェックを受けながら育っています。僕の場合は「お寺の若様」と呼ばれて、大学院に行くと「いつ帰ってくるんだ」とか「いつお嫁さんを貰うんだ」とか言われたりと、ものすごく周囲からチェックされていました。
一方で、自分のやっていたお寺の生業というのが、実際にはあまりわかっていなかったんですよね。教義を究めて仏教の達人になるのではなく、それよりも日常生活の中の仏教に興味を持ちました。そのようなわけで、日々お寺でやっていることや、お寺でやられていることを学問的に位置づけてみたいと思っていました。
高校の時に一冊本を読んでレポートを書くという課題がありました。そのときに読んだのが、藤井正雄先生の『現代人の信仰構造』という本でした。これを読んで、このような研究もあるんだなと思い、印度哲学よりも宗教学に行こうと思いました。一年浪人した時には、東大の宗教学と大正大学の宗教学を受験しました。
聞き手
現実的かつ日常的な宗教ということに視点を置かれて研究をされてきたということですが、「近代化」に注目したのは、今の時代がどのようにできたのかということに関心があったからなのでしょうか?
村上
何を研究するかというのは、人との縁というのが結構影響があって、僕が卒業論文を書くときに、宗教社会学を研究して居られるヤン・スィンゲドー先生の世俗化の授業を聞きました。世俗化の理論について大学院と学部が一緒にやる授業だったんだけど、自分のやりたい葬儀の話とかは世俗化の理論である程度説明できるなと思いました。社会的なものがだんだん個人的なものになるというような話ですね。
卒論では、自分の地元の葬儀の歴史をやりました。葬儀の研究というのは民俗学にしかなくて、野辺送りや土葬の研究が主でした。だけど、僕が地元に帰って実感として持っているのは、葬儀社がやっている葬儀で、告別式スタイルのもので、火葬でした。いつからこんなふうになったんだろうと思って調べていくと、うちの地元だと1960年代の終わりくらい。近所に大きな工業団地や問屋団地ができて、地元に人たちがそこに働きに行って、産業が農業から変わっていっている。
そのような変化と一緒に葬儀の変化も起こっているのではないかというものでした。スィンゲドー先生の授業で研究発表というものがあって、このことを発表したら「面白い事例だ」と言ってくれて、当時の東大宗教学の先生だった田丸徳善先生からもほめていただいて、これなら大学院にも行けるなと思って進学することになったんです。
聞き手
そうなってきますと、フィールドに赴いて現地調査をするというのが多くなってくると思います。今の大正大学の学生にも現代の宗教はどうなっているんだろうと、フィールドワークをする人・したい人が増えていますが、フィールドならではの楽しさ、辛さなどを教えてください。
村上
僕が大学院に入ってからついた先生が柳川先生だったんだけど、修士1年のときに柳川先生がくも膜下出血で入院してしまいました。なので柳川先生にはあまり指導は受けなかったんですが、その代わりに、柳川先生の弟子筋にあたる先輩方に教えられました。中沢新一さんの紹介で、山梨県の丹波山村で調査をしました。丹波山村の実態をまとめるのを島田裕巳さんと一緒にやっていました。調査は他にも、石井研士さんと一緒にやったり、関一敏さんからアドバイスをもらったりと。
このときの調査っていうのは、だいたい研究の枠組みを作らずに、まず行ってみてからいろんなことを調べるんだけど、ここでは、行事に参加したり、相手に話を聞いたりということで。ここで面白いのは、聞きに行った人によって、同じテーマを設定しても違う内容ができあがるということだった。同じお地蔵さんの事を聞いても、僕が聞くのと違う人が聞くのでは、人によって語ることが変化してて、ちょうどこのころには、人類学批判というものがあって、調査というのは、調査する人と現地の人がインフォーマントの共犯関係になっているというもの。このことがかなり印象的で、自分たちもそうだったのかと思ったりしたけど、、、。 そのような調査を今度は、修士論文で葬儀屋さんにやることにしたんです。それで修論を書いた後は、文部省の宗務課に就職しました。そのときに、オウム真理教の事件で5年研究できませんでした。 助手として戻ってきた後に、同じような研究を再開しようと思ったんだけどできませんでした。なぜかというと、大手の葬儀屋さんに話を聞きに行くと、どこかで聞いたような話が返ってくる。あれ?と思うと、当時、月刊『葬儀』で僕は連載を持っていて、結構人気があったんだけど、そこで書いたような内容の話を葬儀屋さんがするんですね。
調査の話になるのですが、民俗調査に行くと、村の長老が学生はこういう話を聞きたいんだろうと判断する。長老の書棚には柳田国男全集があったりする。つまり、そういう対象者にもハウツーができあがっている、というのが民俗調査にはよくあった。その葬儀屋版というのが助手に復帰した時に実感して、調査を再開できませんでした。その後、研究の中心となるのは、雑誌のなかの記事をみて、どのように葬儀に対する考え方が変っているかということを調べることでした。
 

3.【現在の大学院生について】

聞き手
先生が大学院生だったころを思い返して、今の大学院生と比較してここが違うなぁと思うところなどを教えてください。
村上
大正大学に来る前に東大で10年間助手をやっていましたが、学生の様子が変ったかというと変ったところもあります。だけど、大学院生が置かれている状況はあまり変わっていないですね。宗教学は学問伝統がしっかりしていないので、早いうちから先輩が引っ張って就職するというのはなかった。なんとなくやっているというと、オカルトみたいな話だけど、研究室から人がいなくなる。人が新しく入ってくると、いつの間にかどっかに消えていく人もいる。
卒業した人も、アカデミックな分野に就職していたわけではなかったりしますね。
10年間いた時にどういう話をしていたかというと、「大学院に行くということは極道の世界なんだ。道を極めると書いて極道と読む」から始めて、「親兄弟を泣かせる職業だということを頭にいれとけ。まっとうな人は学者にならない方がよい」と言っていました。「助手なのに進学をさせないようにしているなんてひどい」とか言われていました。ただし、中には道を外れないと幸せになれない人がいる。 哲学系や思想系の本をずっと読んでいても、膿まない人がいる。飽きなかったり嫌にならなかったりする人がいたら、そういう人こそ薦めていました。なまじ社会的な能力がある人は学者には向いてと思うなぁ。鰹節の話に戻るけど、食えなくても大丈夫で、収入が低くても苦にならない人。そういう人が学者の道を進んだ方が幸せになれる。
変わり者が道を極めるために進むのが学者で、普通の人が就職してはだめ。それで良いのかどうかは自分で判断しなければダメだけどね。ジャングルで戦闘するようなもので、いつかヘリコプターで救助が来ると信じているんだけど、10年経っても来ないかもしれない、20年経っても来ないかもしれない、でも明日来るかもしれない、それはわからない。
でも明日来るとわかったときに、登られる準備をしていないと登れない。だから研究者でいえば、論文で業績を積み上げてなければならないし、博論も書かなければならない。しかし積み上げていれば就職できるかと言うとそうでもない。それがわかっているのであれば、大学院で続けられるけど無理だったら早めに切り上げた方がよいと思いますね。
聞き手
しかしながら近年の大学院は、研究者の養成はありながらも、学部卒や社会人が教養を求めてくる場合もあります。それらのことも含めて、大学院は社会的ニーズに合わせていろいろ使えると思いますが、村上先生はどのようにお考えでしょうか。
村上
大学院の授業は必ずしも教育的である必要はないと思いますが、はからずもそうなっています。大正大学の修士課程だと、学部で宗教学を知らないまま来ているので、授業では基礎的なことをほとんどしゃべっています。これは非常に不本意ですね。
学者を養成するためには悪い方法です。学者にとって何が大事かと言うと、オリジナリティーを磨くことです。オリジナリティーを磨くためには、自分自身で勉強しなければならない。教えすぎるとろくでもない学者にしかならない。本当に独創的で外でも使える学者を育てるにはあまり教えてはならないというのが僕の指導方針です。
だけど、それだとあまり先に進まないので、はからずも教育的になっています。僕は、修論指導している学生には、あまり教えないようにしているのですが、時間的な問題とかもあったりするので、ついついアドバイスしてしまう。
本当は、「先生がおっしゃるところをわかりますが、僕の言いたいことはこういうことなんです」と反論してくれる人の方が良いよね。
聞き手
教員と学生の関係はあったとしても、学生は学生で本人の考えているオリジナリティーを提示すべきということですよね。
村上
そうですね、教えるのは最小限で、盗むなら僕だけではなくいろんな人からも盗んでほしい。
 

4.【今後の研究は】

聞き手
最後に、今後大学教員としてどのような関心でどのような研究をお考えでしょうか。
村上
東大では実践宗教学はやりにくかったので、大正大学では実践宗教学を中心にやっていきたいと思っています。今は地域の文化を心の教育やいのちの教育に活かすということに関心を持っています。宗教教育は、半分は文化教育だと思うんですね。
宗教という言葉がつかなくても、文化的少数者に配慮して公立学校で行うというのは難しいんだけど、宗教という言葉を使うよりは抵抗が少ない。情操教育というよりは、心の教育、いのちの教育と言った方が抵抗は少ない。
それで、宗派色を抜いて宗教教育をやるとしたら、べつに宗教の言葉を用いる必要性はないんだから、もっとわかりやすいことばで説明することは出来ると思います。死ぬ苦しみを癒すことを教えるときには、デスエデュケーションの話をしたっていいと思う。
広い意味での宗教の社会に対する効用を明らかにしていく研究をしたい。宗教学では特定の宗教の為に研究をおこなうというのは公平性に欠くと批判されますが、心とかいのちとかにまで抽象度を上げたらそんなに偏った研究ではないのではないかなと思います。これからの宗教学は、社会に対する宗教のプラスの機能を研究すべきだと考えています。
聞き手
興味深いお話をありがとうございました。

(2010年4月インタビュー)

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