教員紹介: 星野 壮 先生 ➢教員プロフィールはこちら
1.【宗教学を専攻したきっかけ】
大場
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はじめに、宗教学、宗教社会学との出会いをお聞かせいただければと思います。大正大学に編入され、その時には仏教学科だったと伺っていますが、宗教学を専攻されるまでにはどのような経緯があったのでしょうか。 |
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星野壮
先生
(以下、
星野)
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恥ずかしいんですが、経歴には高知医大(現・高知大学医学部)に入ったことは書いてないんですよ。1975年生まれなのに2001年に慶応大学に入ったという、だいぶ遠回りしているなって思われるような経歴しか書いてないんですね。じゃあなんで医大に行ったのかって、何だろうな……私自身も意外と大事なところでは重要な選択を自分自身でしてきたのかよくわからない。その場で選ぶべき道がなんとなくこう、スッと、待っていたような気がしています。
私が大学を目指した時は、1994~95年くらいで不景気に入ったばかりの頃だったんですよね。坊さんになるには、まだもうちょっと悩んでもいいという風に父親に言われまして。不景気になった時、周りは結構、自分が入っている高校がそうだったのかもしれないけど、国立大医学部を目指すみたいなのがちょっと流行っていたというか。
2年生になって、フランス文学をやっていて。なんでフランス文学なのかって言われると、やっぱりもう一個ぐらい語学がちゃんとできるといいなっていうのがあった。ところがフランス文学専攻に行くと、1週間に6コマぐらいフランス語があるんですよ。それで、この時間は、エミール・ゾラを読む、この時間はボードレール、この時間はジャン・ジャック・ルソー読むとかそんな感じでやっていたんですね。なので、フランス語はその時はかなり頑張って勉強した記憶があります。
鷲見洋一先生(慶應義塾大学名誉教授)からそのときに、だったらこんなの読めと言って、ノルベルト・エリアスという社会学者いるじゃないですか。エリアスは18~19世紀についてのことも書いているんですけど、エリアスのモーツァルト論などがおもしろいよと言われて。要は卒論のための誘導なんだよね、これ。最終的に僕は、18世紀から19世紀にかけて革命を経て急激に変化する中での音楽と聴衆、曲の変化に関するフランス語文献を読んで、それをまとめて卒論に書いたんですね。 |
大場
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全然知らなかったです。それでクラシックがお好きなんですね。 |
星野
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そうですね。そのときに、先生が2年間でCD100枚ぐらい貸してくれて。
そんなこともあって、フーコーとかデュルケムとか、そうした今につながるような著作をそこで読んで、特に衝撃を受けたということがありました。その後、そろそろちゃんと坊さんになる準備をしろと住職に言われたので、さすがにそうだなと思って、大正大学の仏教学に編入しました。多分このときね、人間学部だったと思うんですけど、人間学部の仏教学科に編入しました。
今でも覚えてますけど、当時の学長が星野英紀(編集部注:星野壮先生の父君) でした。今考えると、本当にいやなときに入ったなと思いましたけど、これもしょうがなかったんでしょう。 |
大場
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仏教学部に編入されたのは何年ですか? |
星野
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2005年です。編入後の2年間、夏と冬は、加行(けぎょう)だったり、指定研修だったりで行をしていました。加行というのは、表現的には「仮の行」なんだけど、これはお坊さんになるための重要な行なんですよね。……という位置づけでいいですよね、柳澤さん。 |
柳澤
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そうですね。天台だと、前行、加行に分かれていて、加行の前に、天台宗のお坊さんとしてのベースを作って、加行に入るという形です。 |
星野
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我々も、加行の中に、加行と本行みたいなのがあって、それが終わると、灌頂というのがあるんですけど、とにもかくにも、3年生で編入して、今度はお坊さんの子ども同士で2年間過ごしました。そのときに自分が加行したのが、なんと高知なんですね。だから再び私は高知に帰ったわけなんです。1か月半ぐらい高知にいて、室戸岬の金剛頂寺というお寺で行をしました。四国八十八ヶ所に入っているお寺です。今でもそこのお寺のご住職には大変お世話になっています。
そして卒論を書きました。2回目の卒論ですね。今回の卒論は、興教大師・覚鑁(かくばん)という僧侶について書きました。平安時代末期の弘法大師・空海が超人的なスーパースターという感じで描かれる宗教者だとすれば、かなり悩み多き、時代に苦労したお坊さんなんです。簡単に言えば、この頃の天台宗とか真言宗って、浄土思想との交流が結構重要な問題だったんですよね。
そのときの指導教授である榊義孝先生には、当然ながら仏教学の修士課程に進学するんでしょうと言われたんですね。実は、そのときの宗教学の主任教授はうちの住職(編集部注:星野英紀先生)だったわけですよ。そこに行くのもいやだなと思っていたんだけど、ただ、仏教学の大学院って、豊山派の場合は毎年10人ぐらい進学するんですよね。僕の同期も8人ぐらい進学することが決まっていたんですね。だから、8人もいるところに僕が行って何か意味があるのかなと思い始めたわけです。
どうしたもんかなと思っているうちに、宗教学にお世話になろうかというふうに思いました。これはかなり悩んだんですけどね、当然。やっぱり一番後押しになったのは、そのときの修行の面倒を見てくれていた先生です。お経とかを教えてくれる法式の先生なんですけど、その先生から、「宗派で自分自身が何のお役に立てるのか考えてみるのもいいんじゃないか」と言ってくれたんですね。既に経典の研究者はたくさんいるけど、「宗教と社会」みたいなこと、特に「仏教と社会」ついて研究する人は多くはない。でも、それは絶対考えなければいけないと。だから、「やってみたらどうか」って言われたんですね。
決めたら決めたでちゃんとやらなければ、と思ったので、宗教学の門をたたくことになりました。 |
2.【宗教学専攻と自身の宗教学について】
星野
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大学院に入ったのは2007年です。修了するのに3年かかりました。
学部には比較文化専攻の藤原聖子先生(現・東京大学教授)、人間学部には弓山達也先生(現・東京工業大学教授)がいらっしゃいました。あと、星川啓慈先生、司馬春英先生がいらっしゃって、臼木悦生先生が非常勤で来ていて、山梨有希子先生(現・白百合女子大学講師)とかも非常勤になったばっかりじゃないかな。当時、院生は非常に多かったですね。 |
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大場
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何人ぐらいですか? |
星野
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齋藤さんの同期が4人いて、僕の同期も3人か、4人。院生は全部で10人弱ですかね。また、宗教学専攻には、宗教社会学、宗教学の教員だけで5人(星野、鷲見、弓山、藤原、村上)いらっしゃいました。鷲見先生が主任教授で、弓山先生は今の人間科学科にいて、新宗教研究からスピリチュアリティ研究に移り、『スピリチュアリティの社会学』(2004年、世界思想社)を出版した後ぐらいで、その立場から宗教教育を見るという感じでしたね。
藤原先生は、宗教概念論の博士論文をシカゴ大学に提出されて、大正大学に就職したばかりの頃でした。非常にあったかいんだけど、立て板に水を流すがごとくの明晰なお話と知識の豊富さにはいつも圧倒されていましたね。今考えると、東大の宗教学のメソッドというか、ディシプリンみたいなものをちゃんと作り上げなければいけないということをやられていました。だから、宗教学のディシプリンの重要性は、すごく教えていただいた気がします。
あとは、鷲見先生は、そのときちょうど博士課程が終わったばかりの浄土宗の江島尚俊さん(現・田園調布学園大学講師)が博論執筆の準備をされるということもあり、近代仏教の本を鷲見先生に教えていただきました。
村上先生は、そのときは世俗化論の話をしていたけど…。 |
髙田
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今も授業されていると思います。 |
星野
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前期が、村上先生は世俗化論の話をして、後期が日本の近代化の話ですね。今もそうかもしれませんが、本一冊まるごとぽんと預けて、さあ読んできなさいというスタンス。今もそうですか? |
髙田
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そうですね。はい。 |
柳澤
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そうです。授業を取らせていただきましたが、自分で本一冊選んで、それについて、授業を2コマ使って概要を説明する、という内容でした。 |
星野
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なるほど。私のときは、前期がT.ルックマンとK.ドベラーレで。宗教学専攻の大学院に入った直後から2週目、3週目ぐらいまでに全部読んできてまとめるというのが、すごくつらかったなというはよく覚えていますね。でも、そのときの経験はいまだに活きているかな。あと、ドベラーレはどっちかというと世俗化の議論を整理している感じで、ドベラーレの方が読みやすかったことは覚えている。
それで、後期は今でも覚えていますけど、阪本是丸先生の本を1週間で読んでこいという。国家神道形成過程の研究です。あれは、辛かったですね。レジュメをどう短くすればいいかわからなかった。あれをA4、4枚にしろというのは辛いよね。 |
髙田
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そうですね。 |
星野
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で、そんな感じで、ちょっと上の学年に江島さんがいて、1つ上に齋藤さんがいて、同期に横井君がいて、みんな熱心に教えてくれました。その後、藤原先生が東大に行かれて、寺田喜朗先生が来られて。寺田さんって、やってこないと真剣に怒ってくれたじゃないですか。やってこなきゃだめだって言って。あれって怖かったけど、でも、ある意味、そうやって怒ってくれるのはありがたいですよね。
当時は自主性が重んじられていたところがありますかね。自分がやっていないと、やっぱり、すぐに差が付けられるなという感じはしました。なにせ、齋藤さんも横井君も本当に一生懸命というか、自然と競うような感じになっていたのかなと思います。
3年かけて修士論文を書き、駒澤の発表(駒沢宗教学研究会・関東地区修士論文発表会)に「顔見せも兼ねておまえが行ってこい」みたいなことを鷲見先生に言われました。鷲見先生に、おまえがいいんじゃないかみたいなふうになったよと言われて、がんばれよと言われて、その次の日か何かには亡くなられて。とにもかくにもショックでしたね。 |
3.【修士論文、博士論文の執筆に際して】
星野
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次に、宗教社会学をめざした理由と移民研究になぜ行ったかという話しをしますね。
そういうわけで、1年目で宗教哲学っぽいこと、聖なるものの行方みたいなことをやりたいなと思っていたんだけど、とてもできないなと1年生のときに考えて、ずっとへこんでいました。そんなことをしていたら、それが2007~2008年ぐらいだったんだけど、3つぐらいきっかけがあって、在日ブラジル人研究をやろうと思いました。
まずは、一橋大学で移民研究をやっていた院生の塾講師に出会えたということが一つ。慶応のときからずっと塾の講師のバイトをしていて。中目黒の塾だったんですけど、その塾で一緒に働いている講師仲間に一橋大の院生がいた。一橋って移民社会学の牙城じゃないですか。僕が重要な研究だと思った、在日ブラジル人の『顔の見えない定住化』(2005年、名古屋大学出版会)の編著者である梶田孝道先生に教わっていた一橋の院生が、在日フィリピン人の支援をやっていたんです。
あとは、2008年というのが、日本からブラジルに行った日系ブラジル人の移民開始からちょうど100年だったんです。でも、2008年の後半にリーマンショックが始まって、ブラジル人が雇用調整弁として企業から首を切られるという状況になりました。今のコロナ禍もそうですが、強烈な社会変動がまさに目の前で起きていて、そこで実際にインタビューをするだけでも、かなり重要なデータになるなということがわかったんですね。なので、一気にここで調査をしようと思って、2007~2008年ぐらいにかけてすぐに在日ブラジル人の研究へと入っていきました。
ちょうどそのときに弓山先生から、群馬県大泉町のブラジル人学校に行ったという話を聞いて、弓山先生に、実はそういったことをやりたいんですよねと言ったら、とにかくやりなよと言ってくださって。打ちひしがれていたときに、やりたいことがスッと自分の前に降りてきたので、本当に救われたと思って、急いで朝日カルチャーセンターに入会して、ポルトガル語を勉強し始め、まずはいろんな教会に行ってみようと思って、大泉町、そして愛知県の豊橋市に行きました。 |
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髙田
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それはご自分で調査地を探して行ったという感じですか。それとも、弓山先生が行った教会にまず行って、そこからいろいろ紹介してもらったりしたんですか。 |
星野
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弓山先生は教会には行っていないと思います。最初に、タウンページ(編集部注:NTTが作成した職業別電話帳)を見ました。2000年代末って、タウンページはまだこういった分厚い冊子の頃で、そこら辺に置いてあったわけですよ。それで、大泉町とか、その隣の太田市、今考えれば真岡市(栃木県)もそのとき行けばよかったですよね。あとは、愛知県の豊橋市とか豊田市の電話帳をとりあえず見てみて、そうやって自分で探しましたね。 |
髙田
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自分で探して自分で直接電話かけたり、教会に行ったりして。 |
星野
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はい。いい意味でも悪い意味でも、そういったところはいきなり行ってもブラジル人はびっくりしないんですよね。多分、教会にいきなり来るようなブラジル人もたくさんいたんでしょうね。だから、いきなり行っても、あまり怪しまれなかったということはあったのかもしれないです。
太田市の教会、僕はそこに一番最初に行きました。実はそのときに、在日ブラジル人が行く教会のリストをもらいました。そのときの資料だけは、僕は大事に持っていて、博論に載せましたね。 |
髙田
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そのリストがあったからこそ、どんどん研究を進めることができたのですね。 |
星野
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そういうことですね。あとは、太田とか大泉というのは、東京から近いじゃないですか。だから研究者がガンガン入っていたんですよ、この頃って。それこそ調査被害みたいなことが既に言及されている状況だったんですね。大泉の町役場の人に、ちゃんと覚悟をして調査をしてください、ちゃんと了解を取って、人に迷惑をかけないような調査をお願いします、みたいなことは言われた記憶があります。 |
髙田
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そうすると、信頼関係の構築というか、ラポールの構築というのがすごく重要になってくると思うんですけど、調査を進める上でどのように信頼を得るようになっていったのかが、ちょっと気になります。 |
星野
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ただ、僕は、そのときは2007年で、修士1年とか2年だったので、すぐ弱気になっちゃって、大泉はやめようと思いました。これも行き当たりばったりなんですけど、2008年に名古屋の愛知学院大学で日本印度学仏教学学会が行われたんですよ。その翌日はどこかブラジル人のところを見に行こうと思ったのね。
それで豊橋に寄ることになって、いきなりカトリック教会に行ったりとか、今考えたら、何でそんなことをやったんだろうと思うんですけど。あとは、ブラジル人によるペンテコステ派の教会とか。市役所にもいきなり行ったんだけど、ここで門前払いを食らわなかったのね。そこで、市役所の人から、趣意書を出すとか、質問項目をあらかじめ送っておくとか、そういったことを教わった感じですね。だから本当、修士1年の何もわからないときに、とりあえず行ってみようという感じだったから、豊橋の人には本当にご迷惑をかけたと思っています。 |
大場
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市役所というのは、教育委員会とかですか? |
星野
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国際課というのがあるんですよ、もしくは多文化共生推進課とか。そういったセクションを作るということが重要だったんですね、その時期の市役所にとって。ちゃんとブラジル人に関する施策を行っていますよということになるから。 |
髙田
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何かキーマンになるような人がいましたか。調査を進める上で。 |
星野
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はい、3人か4人ぐらいいましたね。1人が豊橋で、そのときはボランティアグループだったけど、今はNPO化している、語学支援を行う団体の代表の女性。
あとは、当時のカトリック豊橋教会の神父さん。彼は日本のカトリシズムの研究をしていて、日本語、フランス語、英語とかができて。そのときは南山大学の宗教文化研究所の研究員もされていました。そして、その神父さんは、後に研究者として、星野靖二さん(現・國學院大學教授)のもとで学ぶことになります。すごい奇遇ですよね。
このとき印象深かったのが、カリスマ刷新運動です。カリスマ刷新運動というのは、ペンテコステ派の勢いが激しくなってきて、ペンテコステ派に負けないようにカトリック側でも元気に聖霊を受け入れるような、体験主義的な宗教運動を起こさなければといって始まった運動らしいんですよ。
カトリック教会側はそれにすごく苦労するんですね。フィールドワークの中で、信徒と神父の口論が激しくなってくると、僕のポルトガル語能力じゃ全部追い切れないんだけど、要は信徒側は、ある程度そういった体験主義的なものを許してくれないと、我々のカトリック教会がだめになるみたいなことを真剣に言っていて。でも神父側は、そうやってデュルケム的な集合的沸騰をわき起こす運動だから、危険な一面もあると考えている。実際にそういったことをやっていた事例が、カトリック教会側でわかっていたので、教会側はそういったことを絶対させないように、特にブラジル人の、ポルトガル語がわかる司牧者 たちはどうにか対処しようと頑張っていました。 |
大場
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あまり詳しくないのですが、カトリックのブラジル人たちが要望・要請するのは、ペンテコステ的な身振り手振りとか、魂おろしみたいな感じのこともしたいとか、そういう話ですか。 |
星野
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その通りです。もともとペンテコステの、あの特有のものは、聖書に書いていることだから、全然間違っていないというのが、ペンテコステ側の言い分じゃないですか。ブラジルのカリスマ刷新運動については山田政信先生(天理大学教授)が研究されていますが、確かにそうじゃないですか。とにかくにぎやかに集合的沸騰をしながら、紐帯を強めていくというような。 |
大場
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「呪術からの解放」ですか。 |
星野
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要は、個人個人と神との契約になるじゃないですか、プロテスタンティズムって。だから、そういった言い方もできるんだけど、実際はやっぱり人々は共同して何か物事を起こそうみたいなことを望んでいるし、実際にそうやってできた共同体の方が断然強いわけですよね。 |
大場
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さきほど「口論」とおっしゃっていましたが、そうしたやりとりを目の前で見たというのは、調査の中でも印象深い出来事ですか。 |
星野
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そうです。この話ですね。 あとは調査って、インフォーマントでも先生でも、いい人に巡り会えるかどうか、ということが大きくないですか。博論の執筆過程を考えると、やっぱり三木英先生(大阪国際大学教授)のグループに声をかけてもらって、本を一緒に書くまでになった白波瀬達也さん(現・関西学院大学教授)、高橋典史さん(現・東洋大学教授)とか、塚田穂高さん(現・上越教育大学准教授)とか、そのネットワークの中で大体同期の連中と仲良くなって、あとは藤野陽平さん(現・北海道大学准教授)とか、岡本亮輔さん(現・北海道大学准教授)とか。ブラジル人研究や在日外国人の宗教について研究していなかったら、知り合えなかっただろうなと思いますね。 |
4.【今後への抱負と大学院進学を目指す人へのメッセージ】
星野
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今後研究者、教育者としてやってみたいこと。
さらに、2019年から予期せぬことに、学長補佐の職位をいただきました。正直ちょっと、今の職務をちゃんとやるということが自分の一番のメインになっていて、なかなか研究者、教育者としてやってみたいことというのが描ききれていないんです。
教育者としては、今年はじめて大学院の授業を持たせていただきました。大学院教育においては、私は村上先生と寺田先生がツートップだと思っています。ですので、お二人が育てる皆さんのような院生の助けになるようなことを僕自身も勉強だと思って、大学院教育ではやりたいと思っています。学部の方は、宗教研究とはちょっと外れますけれど、しばらくはサブカル研究をいろいろと見て学生に教えていくことになるのかなと思っています。 |
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大場
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ゼミなどで学生たちがこういうテーマをやりたいと言ってきたら、どのように対応されていますか。思うようにやってみたらいいよという感じでしょうか。それとも提出までの期間とか、できる範囲とかを考えて、軌道修正を提案されているのでしょうか。 |
星野
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私はまだ卒論を見て3、4年ぐらいなんですけど、いまだに4年生の4月に出したテーマから変えた学生っていないんですよ。なので、それまでは話を聞いてあげているかな。例えば、今年の卒論で一番面白いなと思ったのは、就活メイクについてのもの。すごくおしゃれに気を使う女性の学生さんが、このコロナ禍において、就活メイクとはいかなるものかみたいなことを書いた。就活メイクはまさに集団儀礼中の集団的な作業だというような論文があって、それに反論したいと。
なので、何人かにインタビューをして、個人はそういった上からの言説をどうやって個人の中で分節 化して、戦略を練っているのかという論文を書いて、というふうに言いました。基本的には学生がいいなと思ったことをそのままやってもらっているけど、無理に自分の専門範囲に引きつけるということはしてないですね。ただ、今年の国際文化コースの2年生に、御朱印についてやりたいという子がいて、御朱印というか、巡礼でしょう。いきなり分厚いのを読ませるのは大変だから、岡本亮輔さん の本あたりから読んでもらおうかなと思っていますけど、とにもかくにも学生にはやりたいことをやってもらいたいと思っているので、それを早めに相談をしてくださいとだけは言っておきたいですね。特に、今回みたいなコロナ禍になると、まず途中で卒論テーマを変えて指導するなんていうのは不可能になります。なので、ぜひ、テーマは早めに決めてください。
大学院を志望、検討している人へのメッセージ。
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髙田
大場
柳澤
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本日はお忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。 |
(2021年1月インタビュー)